ツミトガ 〔from MAJOR〕


 風の強い夜だった。
 聖堂から聞こえた物音は気の所為ではなかったらしい。嵌め殺しの窓しかない聖堂に、びゅうびゅうと風が吹き込んでいた。
 扉は開いていない。吹き込む風でろうそくも消えたのだろう。暗さに目が慣れるまで少しかかった。
 ――がたん。
 木製の椅子に何かがぶつかる音だ。まだ少し距離はある。ローブの下で警棒を握りしめ、僕は壁伝いに身をずらした。
 窓がひとつ割れている。
 人ひとり通れるくらい大きく。
 護身術は学んでいる。格闘して相手を捕まえたこともある。それでもやはり、手のひらに汗がにじむのを感じた。
 椅子と椅子の間から影が伸びていた。
 弱い月明かりに照らされて、それが足だと分かった。
 数秒。――身動ぎもせず。
 ふと風の音がやんで、その時初めて、影が荒々しい呼吸をしているのに気がついた。
「ちょっ……君!?」
 とっさに駆け寄ってかがみ込む。濃い匂いが鼻についた。
「君! おい、聞こえるか!」
 揺さぶる手のひらの感触で、男性だと思った。がっしりした感じの、張りのある筋肉。体の向きを変えようとしたとき、がしりと手首を捕まれた。
 ――したたるような、血の匂い。
「――」
 彼は何かを言ったようで、けれどそれは呼吸と風の音に紛れて聞き取れなかった。僕の手首をつかんでいた手が、ずるりと滑り落ちる。それきり彼は静かになった。
「ちょっ……! 君! おい、返事しろ!!」
 慌てて再び揺さぶる。どこかから出血しているのだろうか、揺らすたびに匂いが強くなった。
 ――まだ脈はある。
 手探りで腕を引っ張り上げ、肩に担ごうとしてあきらめた。僕よりも体が大きいらしい。意識がない所為もあるだろうが、思った以上に重く、やむなく腰から下を引きずるようにして運んだ。
 やっとの事でベッドに寝かせ、衣類を剥いだ。明かりに照らされた顔はまだ若い。僕と同じくらいの青年だった。ガラスで切ったのだろうか、細い切り傷が頬や額に走っていた。
 引き締まった胸板が薄く上下している。脇腹が血に染まっていて、彼を引きずった後に不規則な筋を残していた。
 大きな傷ではないと思う。――とにかく止血しないと。


 頭の下で何かが動き、僕は今まで自分が眠っていたのに気付いた。突っ伏していた布団が動いたのだ。僕は顔を上げた。
「……やあ」
 寝起きで少し声がかすれた。上体を軽く起こしていた彼は、不思議そうな目で僕を見ていた。
「気分はどう?」
「……」
 ……口がきけない、とか。
 耳が聞こえない、とか。
 そんなことをたっぷり考えてしまうくらいの間が空いた。
「…………ここ、どこ」
「教会。昨日の晩君が窓やぶって飛び込んできた。……と、思う」
「きょーかい……」
「怪我、してただろ。放っても置けないから、とりあえず手当てした。痛むかい?」
「…………いや」
「よかった。貫通してたから中に何か残ってたりはしないと思う。傷がふさがるまではここにいるといい。そうだ、おなかすいたろ。ごはんもってくる」
 彼の返事を待たず、簡単な朝食を用意して舞い戻った。彼はすでに体を起こしていた。巻いた包帯ににじんだ血が痛々しい。止血から手当をして、引きずったあとを拭いて、窓を急いでふさいだ頃にはもう明け方だった。
 腕を上げようとして、脇腹がつれたのか彼が顔をしかめる。無理もない。介添えしようとする僕を制し、低い位置で器を受け取ると、動く片手でスプーンを口に運んだ。
「食べ終わったら器はそこにおいといて。もう一眠りするといい。あとで体を拭いてあげる」
 彼が頷くのを確認して、僕は部屋を出た。窓ガラスを入れてくれるよう頼みに行かなくては。

「……血は拭いたか」
「うん。それほどの量でもなかったし」
「アンタの体にもついたろう」
「ちゃんと洗ったよ。手当には清潔第一なんだから」
「アンタは怪我しなかったか」
「僕? 僕は全然」
 彼は僕の目をかすめるように見、ふいと横を向いた。二晩目のことだった。


 彼はそれから三日ほどで歩けるようになった。立ち上がってみると、やはり僕より背が高く、体つきもがっしりしていた。元々体を鍛えているのだろうか、回復の早さには驚かされた。
「……なんにも訊かねえんだな」
 夕方、絆創膏を取り替えているときに彼がぽつりと言った。
「教会にはいろんなひとがくるからね」
「だからって素性もわかんねーやつを引っ張り込むか? 少しは警戒しろよ」
「引っ張り込む、って、むしろ君が転がり込んできたんじゃないか。それともけが人を見捨てておいたほうがよかった? 心外な言い方してくれるよ」
「……助けてくれたのは、感謝する。でも俺が善人だとは限らない」
「それじゃ今から強盗でも始めるかい。言っておくけど、ここに金目のものなんてないよ? 僕を殺したところでなんの得にもならないし」
 彼は驚いたように僕を見つめ、僕も目をそらさなかった。職業柄、僕もいろんな人間を見ている。外見だけで善悪を判断してはいけないということも分かっている。それでも彼の真っ直ぐな目は、少なくともこれから狼藉を働くようなひとには見えなかった。
 僕たちはそうして少しの間、にらむように互いを見据え、彼が先に目をそらし、少し笑った。彼がここに来て――僕が彼と出会って、初めてのことだった。
「――君は悪人じゃないと思う」
 僕の本音だった。勘といってもいい。彼はまた驚いたように僕を見た。
「これでも人を見る目はあるつもりだよ。それに、君の命はまだ僕が握ってるんだ」
 後半は、半分はったりだ。予想外に傷のふさがりが早く、もう数日すれば全快すると思われる。今格闘して五分五分というところだろう。
 彼はそれを見透かしたのかどうか、また表情をゆるめた。


 薪割りが一段落したのを見計らい、一休みしよう、と声をかける。彼は汗に濡れた額をぬぐい、僕を見て白い歯を見せた。
 笑うと人なつっこい感じがする。見た目通り腕力もそこそこの彼は、力仕事をいろいろと買って出てくれ、僕はその分手が空いて、彼にお茶を淹れる仕事が増えた。
 彼の傷はもうふさがり、触れば分かる傷跡を残すのみとなった。行くあてがない、とは言わなかったが、僕も彼に出て行けとは言わなかった。司祭というのは正直な話、孤独な仕事だ。同じくらいの年頃の、話し相手がいるというのは、思った以上に楽しいものだった。
 彼はいろいろな土地のことを知っていた。僕は隣の隣町くらいにしか行ったことがない。ここと同じくらい静かで、穏やかな町だ。だから彼の話す、時にきらびやかで、時に退廃的な都市の話は、恐ろしくもあり興味深くもあった。
「まあそんなとこじゃ、アンタみたいなお人好しは長生きできねえな」
「失敬な」
「怪我人装ってる強盗だってごろごろいるんだぜ。なまじ介抱なんてしてやったばっかりに、翌朝にはムクロになってるってこともあんのよ」
「教会を襲ったって得にはならないよ」
「なるんだよ。ご寄付だなんだっつってたんまりためこんでるんだから。アンタみたいに清貧をよしとする連中なんざ、都にゃいねーよ」
「……だから君は、教会だと聞いて変な顔をしたのかい」
「あん?」
「最初の朝さ。ここはどこだと言うから、教会だと答えたら、君は少し厭そうな顔をした」
「あー……」
 彼は後頭部をがりがりと掻いた。
「まあなあ、俺的にそんなにすきな場所じゃあねーよ」
「……」
「でもアンタ見ててちょっと思い直した。中にはまっとうな神父もいるってーことだな」
「教会すきになった?」
「それとこれとはなあ。お祈りとか、俺性にあわねーし。聴いてると眠くならあな」
「……そこは残念に思うな。いつか君が分かってくれるといいけど」
「アンタのことは気に入ってるぜえ」
 こともなげに彼は言い、ティーカップを置いて立ち上がった。
「昼寝してくら。薪、足りねーようならあとでやっとく」
「充分だよ。ありがとう」
 振り返らずにひらひらと手を振り、彼は扉の向こうへと消えた。どちらかというと朝寝で、ともすると昼過ぎまで寝ていることがある。早く起きた朝は、こうして昼寝をするのが常だった。夜は互いの部屋にいるから、彼がいつ頃寝るのかまでは知らない。


「たまにゃ手伝うよ。いっつもアンタに任せっきりだし」
「ひとり分もふたり分も同じだよ。君は充分手伝ってくれてるし、これ以上何か頼むのは気が引ける」
「何もしねーのも気が引けんだよ。やることねーの?」
「うーん……じゃあ、ジャガイモの皮むき」
「おうよ」
 包丁を繰る彼の手つきは何となく危なっかしかった。斧とかのこぎりとか、そういうのを扱う方が似合っている気がした。やはりやめさせようか、と思ったときだった。
「痛って、」
 言わんこっちゃない。
 親指の腹から、赤いしずくがにじみ出していた。さほど器用ではなさそうだ、という僕の見込みは、外れてはいなかったらしい。
「ばっ……!」
 危うく彼は包丁を振り回し、ジャガイモが転げ落ちた。
「危ないなあ!」
「アンタが!」
 包丁を握る彼の手が震えていた。
「アンタがそんな真似すっから!!」
「そんな真似?」
「今! 口に入れたろ!!」
 ああそんなこと、という思いは顔に出ただろう。意図があってしたわけではない。彼の反応のほうが僕にはよほど不思議だった。
「別に意味なんかないよ? 子供の怪我とか、みんなこうするじゃないか」
「俺はコドモじゃねーし!」
「あ、いやそういう意味で言ったんじゃなくて。とっさにって言うか、いつもそうするから……不快だったら謝る」
 彼は切った親指を軽く口に含んだ。さほど深い傷ではなかったのだろう。それで出血は止まったらしい。僕の舌の先には、ほんの少しサビっぽい味が残っていた。
「小さい傷ならそうしちゃうだろ?」
「ああ――そうするかもしれない、けど」
 けど、なんだよ。
「悪かったよ」
「アンタ誰にでもこういうことするかよ」
「うーん……そういう機会自体そんな無いと思うけど、するかも。子供とか怪我したら」
「あんま、よくねえ。忠告しとく。ひとの血なんて口にしない方がいい」
「うん、まあ……そうだね、気をつけるよ」
「……もう遅いかしんねえけど」
「これから気をつけるよ。さて、とりあえず君はここではあんまり役に立たないようだし、おとなしく待っててよ。できたら呼ぶからさ」


 風が強い。
 その所為かいまいち寝付けなかった。
 窓の外ではなく、僕の耳の中で音がしている気がする。
 ざわざわと。


 ずいぶんまぶしいな……。
「……っと!」
 日の光に目を射られたのだろうか。彼が抱き留めていることに気がつき、僕は慌てて体を離そうとして、はっきりしためまいを覚えた。
 ……なんだ?
 昨日眠れなかったからか??
「……ありがとう」
「中、戻った方がいいんじゃねえの?」
「平気だって。ちょっと立ちくらみしただけ……」
「……じゃ、なさそうだけど?」
「えっ、うわ……、ちょっと!」
 軽々と僕を抱え上げ、彼はくるりと踵を返した。迷うことなく僕の部屋に向かい、ベッドの上で手を離す。僕が抗議の拳を振り上げるより早く、彼の手のひらが額に触れた。ひんやりしているのが意外だった。
「熱なんかないって。寝不足だよ。昨日、風強かったろ?」
「風?」
「風って言うか、葉擦れの音なのかな、ざわざわーって……気になり始めたら寝付けなくつて」
「……そうか。じゃあ今から寝るんだな。何かほしいものあるか」
「いいよ、気を使わなくて。ただの寝不足なんだから」
「目の前でぐらーっと来られたら、普通心配しねえ?」
「悪かったよ。まともに太陽見たんだな、一瞬くらっと来た。それにしても君、ホント腕力あるね。僕これでも結構重いんだぜ?」
「……慣れてんだよ」
「へえ? ま、なかなかいい感じだった。頼もしいって言うか」
「……何言ってくれてんの」
 くすり、と彼が笑う。ほら寝ろ、と、毛布をかぶせられたのが、なんだか照れ隠しのように思えた。


 ……そうか。
 手のひらの冷たさを意外だと思ったわけ。
 抱き上げられているほんの少しの間、温かいな、と思ったからだ……。


 ……ざわついている。
 森の木々だろうか。
 風の音だろうか。
 膝の下から這い上がってくるような、ごく微かなむずがゆさのような。
 落ち着かず、何度目かの寝返りを打つ。タイミングがずれていたら、ノックに気付かなかったかもしれない。
 起きてるか、と彼の声がした。
「……起きてるよ? 何か用かい」
「入っていいか」
「いいよ」
 そろそろと扉が開く。僕は体を起こして枕元のランプをともした。
 ふわり、と甘い匂いがした。彼はカップを持っていて、湯気が上がっているのがうっすら見えた。
「眠れてねーんじゃねーかと思って」
「……ご明察、だね。昼に寝た所為だ」
「具合は?」
「悪くない。って言うより、夕方あたりからすっきりしてきた」
「またふらふらされたらアレだなと思ってさ。……まだ熱いぜ」
「…………ミルク?」
 受け取ったカップの中で、オレンジ色の明かりを反射した水面が揺れた。
「蜂蜜入り」
「……なんだか意外だな」
「あのな。俺だってミルク温めるくらいはできんのよ?」
「そうじゃなくて……意外と細かいとこに気がつくなって……あ、これもダメか。とにかくありがとう。君の分は?」
「俺まで飲む必要ねーだろ」
「そうかな……君の目の前でひとりで飲めって言うの」
「それでいいだろ?」
「よくないよ。君甘いの苦手? 苦手じゃないなら先に一口どうぞ」
「……」
 何を言うのか、とでも言いたげな顔だった。
 両手で差し出したカップを、彼の手が僕の両手ごと包む。カップに口をつけた、と思ったら、そのままぐいと引いた。
「……!」
 カップをぎりぎり落とさなかったのは、彼の手が添えられたままだったからだ。舌の上に流れ込んだ甘い滴を、僕は反射的に飲み込んだ。
「なっ……」
「黙って」
 僕にそれ以上何も言わせまいとするかのように、彼が僕の唇をふさいだ。ひんやりした手のひらではなく、血の通った――唇で。
 ――キス、されている。
 気付いた事実が僕を硬直させた。彼が少し顔を離し、僕は大きく息を吸った。
「……なんてことを……!」
「……初めてか? こういうの」
「当たり前だ!」
「女とも?」
「僕は司祭だ! そんなみだらなこと……」
「清貧の次は貞潔か。泣かせるね」
 喉の奥で彼は笑った。
「まだ風は鳴っているか」
「え?」
「風の音だよ。まだ聞こえるのか?」
 ざわざわ、ざわ。
「……聞こえる」
「なら、聞こえなくしてやるよ」
「えっ……」
 そして彼の手が僕の肩を押した。


「……冷めたろ」
「誰の所為だよ」
 ……でも、ちょうどいい。
 喉の渇きを潤すには。
「……君は誰とでもこんなことするの」
「……妬いてる?」
「……そういうんじゃない」
 彼は僕の背中を抱き直し、首筋にあごを埋めるようにして少し笑った。
「俺にも一口」
「自分で飲みなよ」
「つれねえの」
 肩越しにカップを受け取り、冷えてしまったミルクを彼がすする。半分振り向いたままだった僕のあごを片手で持ち上げ、指で軽く僕の唇を押さえた。
 ――蜂蜜の入れすぎなんだと思う。
 でなければこんなに甘いわけがない……。


 ――風の音はやんでいた。


 正直、悔いていた。
 朝の光の中で彼を見たときから。
 拒みきれなかった自分にも腹が立っていた。腕力ではかなわなかったかもしれない。けれど、抵抗したとどうして言える? 未知の快楽におぼれて流された。それは揺るがない事実だ。
 ――僕の修行が足りないからだ。
 だから彼の誘惑に負けた。
 ――いや、彼が悪いのではない。僕が弱いからだ。
 だから彼を責めてはならない。

 
「――なあ、神父さんよ?」
「何?」 
 僕は当たり障りなく彼に接するよう努めていた。出て行ってくれとも言わなかった。ただこんな風に、部屋でふたりになることを恐れてはいたが。
 彼は気付いていたのか、いないのか――こうして僕の部屋を夜更けに訪れたのは、一週間ぶりのことだった。
「まだ怒ってんの?」
「――何を?」
「だからその、この間のこと」
「どうしてそう思う」
「露骨に避けてんじゃん」
「そんなことはない」
「俺と目、合わせねえじゃん」
「気の所為だよ」
 ――彼は気付いている。
 僕の恐れを。
「どうして僕が怒ってると思うの? 君にもやましいところがあるのかい」
「ねえけど」
「は!?」
「あ、いや、まるっきりねえわけじゃねえよ――たださ、そうやって我慢してるの見たら、悪いことしちまったかも、とはちょっと思う」
「我慢?」
「してるだろ、アンタ」
「僕が?」
 彼はふう、と息を吐いた。僕は自分の体が硬くなっているのを自覚していた。
「貞潔であろうとする信念は認めるよ。けどさ、そのかしこまった服の下から、俺にはアンタの悲鳴が聞こえる」
「悲鳴だって?」
「アンタにゃ聞こえねえのか? それとも聞こえねえ振りをしてんのか――」
「僕がどんな悲鳴を上げてるって言うんだ」
「俺の口から言ってもいいのかよ」
 ――気付いている。
 気付かれている。
 僕が何を恐れているのか。
 彼が僕の手をとっても、僕は動けなかった。
「――僕は司祭だ」
「分かってる」
「司祭は貞潔でなければならない」
「俺はアンタを貫いちゃいない。アンタが望まないならずっとそうしてやる」
「そういう問題じゃない。僕は」
「いかがわしいことをしている、と思うのか」
 ――ざわざわ。
 風が鳴った。
 潮騒の音のようにも思えた。
「そう思いながら毎日、すました顔でお説教をしているわけか」
「言うな」
「身の悶えを黒い服で隠して!」
「言うな!!」
 彼の手を振り払った勢いのまま、僕は彼の頬を張った。思わぬ早さで僕の目の縁に涙が湧いて、拭う間もなく滑り落ちた。
 ――分かっている。
 分かっているから言われたくなかった。
 激しく悔いる一方で、僕が求めてしまっていることを。
 それこそが、何にも代え難い冒涜そのもの――。
「……今のは言い過ぎた」
 浅黒い肌を少し赤くして、彼はひんやりした手で僕の頬を拭った。
「あのときもそうだ。俺がアンタを求めただけで、アンタは抗わなかっただけさ」
「僕は――」
「それでいいだろ」
「僕は!!」
 君の優しい嘘が痛い。
 君は悪くない。悪いのは――
「――僕が君を求めた」
 彼は目を見張った。
「最初は君の求めに応じただけかもしれない。でも拒もうと思えば拒めたんだ。――僕は」
 僕はあのとき。
 君の熱に浮かされたようなあのときに。
「このまま夜が明けなければいいと思った」
「――」
 彼は僕を抱き寄せた。たくましくて温かい胸板を感じて、体の奥が痛みのように疼いた。
「……アンタは、俺が見てきた教会の連中の中でもっとも気高いよ」
「僕は未熟だ」
「そうかもしれねえな。頭も硬いし」
「……」
「なあ、本能に従うのがそんなに悪いことか? 眠たくなったら寝て、腹が減ったら飯を食う。それと変わらないだろ」
「それとこれとは」
「アンタに触れたいと思うのがそんなに悪いことか」
 僕は彼を見た。彼の目は変わらずに真っ直ぐだった。
「アンタの言うけがれってのはなんだ。体を許すことか? それならそのへんの連中はみんなけがれてることになる」
「性交と姦淫は違う」
「じゃ、街娼に信仰する権利はないってか」
「それは――」
「泥まみれの人間はココロまで汚れてるってか」
「そんなこと言ってない」
「かわんねえよ。けがれってのはココロの、魂の問題さ。何人男と寝たって、魂の美しい女はいるよ。したり顔ですまして礼拝に来る人妻のほうが、よっぼど汚れてたりするもんだぜ」
 僕は反論できなかった。もしかして彼のほうが、はるか高みにいるのではないか……。
 いや、そう思うこと自体、僕が彼を知らず見下していたということだ。――なんという思い上がりだろう。僕は羞恥で顔が熱くなった。
「アンタは可愛い。だからもっと触れて、アンタを知りたい。――アンタが厭でなければ」
 答える言葉を持たず、僕は顔を伏せた。理由はどうあれ、赤らんでいるのを見られたくはなかった。
「――僕は君におぼれてしまうのが怖い」
「……」
「僕は司祭だ。信仰を捨てるつもりもない。だけど、君といるとそれが揺らぐんだ」
「……バカだな」
 少し乱暴なほどに、彼は僕の頭を撫でた。
「我慢してるからそんなこと思うんだ。俺はアンタの信仰とやらを邪魔する気はねーし、誰だってそのへんはうまく折り合いをつけるもんだぜ」
「折り合い?」
「全部一気にやろうとするから行き詰まるんだって。目一杯信仰するときはして、そうでない時を作ればいいだろ」
「たとえば?」
「今とかさ」
「……」
「アンタだって四六時中こんなことしてたいわけじゃないだろ。でもしたくなったら目一杯甘えていんだぜ? その間は信仰とやらに目をつぶってさ」
「……四六時中したくなったら?」
 彼は驚いたように肩を離し、僕の顔をまじまじと見た。けれどそれも数秒のこと、さらに強く抱きしめられて、一瞬息が止まった。
「そのときは」
 彼の声は笑っていたが、茶化す色はなかった。
「カミサマとやらに、目をつぶってもらうのさ」


 風の音が強くなる。
 彼が触れるその場所から、僕をむしばむように。


 言葉通り彼は僕を貫こうとはせず、僕もまだそれを望まなかった。話に聞いたことはある。けれど、必ずしも快楽を伴うものではないらしく、それが怖かった。
 目のくらむような心地よさに足りていた、というのもあるだろう。彼の手はまるで魔術のように、次々と違う悦びを僕に与えてくれた。時に穏やかに、時に激しく、気を失うのではないかと思うほどの波から、不意に上質の布のような甘やかさで僕を包む。それを拒むのは、抗うのさえ、僕は惜しいと思った……。


 僕はふと目を開けた。ランプの明かりに、重なったままの互いの影が伸びる。どれくらい時間が経っただろう。ずいぶん長い間そうしているように思ったけれど、まだ夜が明ける気配はなかった。
 このままずっと。
 夜明けなんて来なくても……。
「……?」
 それが何なのか、すぐには分からなかった。
 違和感だ、と気付いてからも、なぜなのかが分からなかった。分かることを頭が拒んでいる。そんな感じですらあった。
 それを頭が受け入れたとき、全身の血が粟だった。
「――――!!」
 突然突き飛ばされた彼が、不思議そうに僕を見た。――その姿が、姿見に映っていなかった。寝間着の前を握りしめ、呆然とする僕の姿だけが、ランプの明かりに照らされていた。
 ――彼は。
 人間じゃ、ない――――?
「なんだよ?」
「きみは、」
 声がかすれた。歯の根が合わず、口元を押さえた両手も、がたがたと震えていた。蜜のような昂ぶりはとうに吹き飛び、流感のような悪寒と恐れが、僕の全身を襲っていた。
「きみは、なにものだ」
「え――」
「あくまか」
「――」
 彼は振り向き、僕の恐れの理由を悟ったようだった。
「――俺としたことが抜かったな。おぼれたのはどうやら俺のほうらしい」
「君はなんなんだ!」
「ひとにあらざるひと、さ」
「それは」
「アンタらの言葉を借りれば、吸血鬼と呼ばれている」
「……!!」
 僕は。
 なんということを……!!
 反射的にナイトテーブルにおいていたロザリオををつかみ、必死で彼に突きつける。けれど彼は、またも不思議そうな顔をしただけだった。
「どうして――」
「あー、吸血鬼が十字架に弱いってか。下等な連中にゃあ効くかもしれねーが、俺に効果はねえよ。第一効いてたら、教会なんぞにいられねえだろ?」
「太陽も、」
「あんまり強いのはすきじゃねえけどな。耐えられないほどじゃねえよ」
「――」
 理解できた。
 理解、というより、強制的に納得させられた感じだった。気に留めていなかった些細な事柄が、突然つながってひとつの答えを作る。
 彼が昼寝をするのも。
 傷の治りがやたらと早いのも。
 人並み以上に腕力があるのも。
 けれど、それでもまだ信じられなかった。信じたくない、のほうが正しいかもしれない。
「どうして僕を襲わなかった」
「そりゃ機会なら腐るほどあったけどな――今だってあんだけ絡み合ってたんだし」
「どうして!」
「俺にアンタは汚せないと柄にもなく思ったのさ。俺が牙を立てたら、アンタは日の下で笑えなくなる。それがいやだった」
 なのに、と、彼は少し眉をひそめた。
「アンタは俺の血を飲んじまった」
「――あ」
「吸血鬼に血を吸われると吸血鬼になる。それは吸血鬼の血が、牙から流れ込んで混じる所為さ。直接血管に入らなくたって、影響がないわけはない。現にアンタは、日の光で倒れた」
「あれは――」
「寝不足の所為だっていうのか? なら今も風の音が聞こえるか」
「……少し」
「窓の外を見てみろ。木々が少しでも揺れてるか? 風なんかこれっぽっちも吹いちゃいねえ。――風じゃなくて、アンタの体が騒いでるんだ」
 ――ざわり。
 一層強く、何かが鳴った。
 僕の耳の奥で。
「――嘘だ」
「嘘じゃねえよ。――あんま見せたいもんじゃねーけど」
 彼は口元を手で覆い、すぐに離した。開いた唇の間から覗いたのは、紛れもない牙だった。
 ――涙が、落ちた。
「僕は吸血鬼になったのか」
「……なってはいねえよ」
「それならなんで」
「俺の血にアンタの体が慣れてないだけさ。体質は少し変わるだろう。だけどアンタは人間のままだ」
「――嘘だ!」
 目の前が曇り、彼の輪郭がにじんだ。
「アンタは堕落したわけじゃない。ただ――」
「黙れ!!」
 投げつけた枕を彼はよけなかった。
「出て行け! 今すぐここから!! 殺さないでいてやるから、これ以上僕をけがすな!!」
「――」
 彼は何かを言いかけたようだった。
 そう思いたかっただけかもしれない。彼が出ていき扉を閉めるのと同時に、ランプが消え、あたりは真っ暗になった。


 真昼の日差しはきつかった。彼のいう体質の変化なのか、確かめるすべはない。けれどもう、どうでもいいことだった。
 風の音は聞こえなくなった。彼の言葉を借りれば、僕の体が慣れたということになる。静けさを得た代わりに、いつか血を求めるのではないか、という恐怖が強くなった。教会にはたくさんの人が来る。そのうちの誰かをいつか襲うのではないか。そう思うと、ひとと顔を合わせるのが酷く億劫になった。
 許されないことはたくさんある。彼を求めてしまった自分。彼との行為にふけった自分。素知らぬ顔で司祭を続ける自分。――すべてを裏切り続けている自分。
 ――これが最後の裏切りだ。
 許されなくていい。このまま生きていくよりは、この方がずっと楽だ。
 ただできることなら。
 ――勝手な言い分だ。彼を突き放したのは僕だ。この願いが叶わないのは、僕の罪故。
 僕は崖に背を向けた。これで何かにしがみついたりできなくなる。それでいい。
「――バカ!」
 後ろにかしいだはずの体は、一瞬停止して逆方向に引っ張られた。勢い余ってうつぶせに倒れ込む。僕の体は地面には触れなかった。
「きみ……」
「禁忌にもほどがあんだろ、神父さんよ」
「でも」
「アンタがいなくなったら、俺はどうすればいい」
「でも!」
「アンタは気高い。アンタの魂は今も美しいままだ。――そのアンタがどうして死ななくちゃならない」
「――僕は罪を犯しすぎた」
「何が罪だ。俺に体を許したことか?」
「だって君は」
 言いかけて、はっとした。彼の肌から蒸気が上がっていた。浅黒い肌が、うっすらとただれていく。
「……あんまり強い陽はすきじゃねえって言ったろ」
「命に――」
「このまんまこーしてたらやばいかもな」
「日陰に!」
 起き上がって辺りを見回すも、開けた崖の上には木陰ひとつない。僕は彼を引き起こした。少し下れば茂みがあったはずだ。そこなら――。
 歩ける、という彼にそれでも僕は肩を貸し、できるだけ急いで道を下った。立ち並ぶ低い木々の根元に彼を横たえる。彼の呼吸は少し苦しそうだった。
 ずいぶん痩せた、と思った。頬がこけている。そう言えば、担ぎ上げたときも前より重く感じなかった……。
「ちゃんと食事してるの」
「そりゃ飯食ってるかっつーこと?」
「それも……あるけど」
「……吸ってねえよ」
「……」
「その気になんねえから。下等なヤツと違って、しばらく吸わなくたってへーきなんだ」
「そのままだとどうなる」
「……さあ。試してみねえとわかんねえな」
「死ぬかい」
「さあな。まあ今ならとどめさせるかもしんねえぜ」
 僕は小刀をとりだした。彼はそれを目に留めて、小さく笑った――。
「――ちょっ……!!」
 赤い体液が盛り上がった指を、僕は彼の顔の上にかざした。
「君が吸うわけじゃない。これなら君の血が混じることもない。――君が望む量には足りないかもしれないけど」
 一滴、二滴。彼の唇を僕の血が濡らす。木陰の中ですら、彼の瞳が不可思議な光を放ったようだった。
 手首をとられ、思わずびくりとした。彼が少し身を起こして、僕の指の腹に唇を当てる。あの牙が覗くのかもしれない。それが忍びなくて、僕は目を閉じた。
「……充分だ」
 僕の手を離すと、彼はまた横たわった。唇に血のあとはついていなかった。噛まれた気配はない。けれど痛みを感じなかっただけかもしれない。そう思って指の腹を見ると、小刀の傷跡すら見つけられなかった。
「……噛み傷を残すのは下等な連中のやることだ。俺らは傷跡ひとつ残さない。つーか、治せんだよ、それくらい」
 そう言う彼の顔は、いくらかふっくらしたように見えた。ああ彼は本当に吸血鬼なのだ。そう思っても、そこに恐怖は感じなかった。
「……アンタはホントにお人好しだな」
 彼はまぶしそうな目で僕を見て、小さく笑った。
「俺が消えりゃあ、アンタの悩みも消えるかもしんねえのに」
「だからって、放っておけない」
「俺吸血鬼よ? あんたらの忌み嫌うモノよ? アンタにやられんなら本望だったのに」
 こともなげに言って、またふっと笑う。十字架も効かない相手を物理的にどう殺すのか、僕には想像できなかった。
「どうして君はあそこに――?」
「――アンタに謝りたかった。ずっと機会を待ってたんだが、さすがに教会にゃ入れねえし、アンタはなかなか出てこねえし、やっと出てきたと思ったらこれだし」
「どうして謝るの」
「言ったろ、これ以上けがすな、って。俺はそんなつもりじゃなかったんだが、どう思うかは相手次第だからな。――悪かったよ」
「謝られたって」
「俺とアンタの間にある事実が消えるわけじゃねえってのも分かってるさ。俺の勝手な言い分だってーのも分かってるけど、言っておきたかった」
「……君は勝手だ」
「そう言ってる」
「ホントに勝手だ」
「いくらでも詰っていいぜ」
「僕も君に謝りたかった」
「は?」
「僕をけがした、と」
「ホントのことだろ」
「僕は自分を棚に上げた。僕が君を受け入れた。――僕が君を求めたんだ。君はそれに応じただけだ」
「無理しなくていんだぜ」
 彼は横たわったまま手を伸ばし、僕の頬に触れた。僕はそれを両手で握った。熱を帯びているように感じたのは、日に焼かれたということなのだろうか。
「死んじまおうと思うくらいつらい目に遭わせた。いくら詫びたって足りねえよ」
「――つらかった」
「うん」
「何もかも。いつか自分が誰かを襲うんじゃないかって」
「それはねえよ。第一アンタ、誰かの肌にぐらっと来たことがあんのかい」
「ない、けど……見ないようにもしてたし、たまたまかもしれないじゃないか」
「意識するしないにかかわらず、見えちまうもんなのよ。どこに旨そうなのが流れてるか、とかさ。大概は首筋だけどな。それもねえのに何を案ずるかね」
「なんの保証もないじゃないか!」
「俺が保証する。アンタは自分をもっと信用しろ。アンタの魂は、いささかも汚れちゃいねえんだ。――体は俺がけがしちまったけど」
「そんな風に言うな」
「すまん」
「君はなんにも分かってない」
「すまん」
「謝るなよ! 僕がつらかったのは――」
 何もかも。
 何もかもを裏切る自分が。
「――君がいないことだ」
 彼は驚いたように身を起こした。ただれた肌が治りかけているのが見て取れた。僕が握っていない片手で、彼が僕の頬を撫でる。
「君がいなくなって――君がいなくて、それがなにより苦しかった。君を捜すすべもなかったし、第一出て行けと言ったのは僕だ。僕をけがすな、なんて、一方的に君を悪者にして――」
 彼は僕を抱き寄せた。痛いくらいに強く。少し息苦しくて、それでも僕は、安堵の気持ちを抑えられなかった。
 言いたいことを言った。そのことも手伝っていたと思う。僕の罪が消えたわけでも、許されたわけでもないのに、胸につかえていたものが少し減った、そう感じた。
 このまま罪に濡れても。
 たとえ救いのないことだとしても。
「僕を許してくれとは言わない。でも、もう少し僕のそばにいてくれないか。――君がいやでないのなら」
「もう少しでいいのか」
「――君が僕を許すまで」
「そりゃあ無理な相談だ」
 彼は体を少し離し、互いの額を軽く合わせた。
「俺ははじめから、アンタを咎めちゃいねえよ」
「でも」
「けがすなと言われたのはちょっと応えたけどな。アンタが俺を許してくれるなら、俺は地獄の果てまでアンタにつきあうよ」
「――僕も君を咎めてなんかいない」
「いいのかよ? あんまり許すと、俺何するかわかんねえよ」
「構わない」
 彼が少し目を見張る。変わらずに真っ直ぐな目をしていた。彼の牙で屠られるならそれでもいい。そう思った。
「……あんま泣かないでくれ。カミサマとやらに申し訳なくなる」
「君に信仰心があるとは驚きだ」
「否定はしねえ主義なんだぜ」
 くすり、と彼が笑う。僕の目尻を軽く吸い、それから僕らは、長い口づけを交わした。


「こんなとこで?」
「いやか? 誰もこねえと思うけど……ああでもあれだ。アンタが嫌がることはしねえよ」
「いいよ」
 彼が目を見張る。僕は彼の首に腕を回した。
「でもその前に、君の名前を教えて」


〔あとがき〕
 いろんな意味で妄想500%くらいでスミマセン……

 長沢さんがよそさまからのリクエストで描かれた、「神父と吸血鬼」のイラストを見たら何かが降りたのです。
 勢いのみで仕上げて突きつけました。迷惑千万。
 アタシはブッディスト(仏ダチとも言うよ?)なので、神父に縁がないというか、牧師との違いも分からない有様なので、そのへんのリージョン的なところは雰囲気で流していただければ幸いMAXです。
 バイブルとかはフィクションとしては面白いと思うんだけど……シスターもブラザーも設定としては萌え。

 パラレルとはいえ、原作の感じをなるべく壊さないようにーと書いてるつもりですが、吾郎がいやに紳士的なのが非常にインチキっぽいです。
 でも理屈並べて追い詰めるところはアタシが楽しかったです。
 やっぱね、きれい事だけじゃ済まされないというか、境界線を引くことができない行為というのはあると思うの個人的に。

 金田一耕助シリーズを立て続けに読んでいた時期だったので、「文語的なえろシーン」の影響を受けてます。
 まあえろシーンは書き出すときりがないというか、寿くんに経験がないから描写できかねると言うことにしてもらえれば。
 
 長沢さんにお気に召してもらえたので結果オーライです。

ウエニモドル