emergency call Im Allgemeinen gewust einem Entlastung Mas. 〔from 絶対服従命令〕

【注】ゲームの本文に則し、「看護婦」という表記をしています。ご了承ください。


「……何をしている」


 日も沈んだ時刻。
 患者も引けた頃。
 幼馴染みの彼は、なぜか片足だけ裸足になり、針を火で炙(あぶ)っている。


「やあ、珍しいな」
「書類を届けに来た」
「それが珍しいと言ってるんだ。お前が来てくれるなんて」
「頼む相手がいなかっただけだ」
 そう、決して好きで来たわけではないのだ。
 できれば、できるだけ顔を合わせたくない相手なのだし。
 だから、たとえ彼が片足裸足になっていようが、ピンセットで針を炙っていようが、ことさら会話の種にする必要などどこにもない。
「そう言わずにゆっくりしていってくれ」
「断る」
 傍目に分かるほど先端が赤く焼けた針を、彼が持とうとしていようが。
「熱つッ」
 当たり前だ。
 軽く息を吹きかけて指先で持ち替え、まるで筋肉に埋もれた血管を探すかのように。
「何をしている、と訊いたのだが」
「見れば分かるだろ。刺すんだよ」
「……そういうことを訊いているんじゃない」
 じゃあなんだ、と、言葉にしない目の色で彼が顔を上げる。針の先が指している左足の親指が、ほかの指より赤くなっているのは、彼が無理にひねっているだけではあるまい。
「膿を抜くだけだ」
「……おおかた深爪したあとに泥の中でも歩いたのだろう」
「どうやったらそんな状況に陥れるのかこっちが聞きたいよ。深爪というのは当たってる。さすがハーゲン」
 何がどうさすがなのかは、つっこむ気にもならない。
「たまにやるんだ。少し痛くても放っておけば治るんだが、どうも膿んでしまったらしくて」
「それをそういう野蛮な方法で解決するつもりか?」
「いつもこうだけど?」
「……お前の職業は外科医だと思ったが」
「そうだよ」
「こういう環境にいてどうしてそういう愚挙に出られるのか、まるで解らないな」
「……すまない、もっと解りやすく話してくれ」
「医者のくせになんでそんなに野蛮な治療を試みるのか、と言いたい。馬鹿かお前は」
「適切な方法だと思うけど……」
「馬鹿だな」
「あまり馬鹿馬鹿言われると俺も腹が立つ」
「事実を客観的に述べたまでだ」
「あ、でももしかして心配してくれてる? だったら嬉しい」
「……お前がそんなくだらないことで欠勤でもされたら、誰が迷惑すると思っている」
「素直じゃないなぁ」
「……もういい。失礼する」
 爪が抜け落ちようが指が欠けてしまおうが、もう好きにするがいい。
 これ以上話すことはない。話す理由もない。顔をつきあわせていても苛立ちが募るだけだ。
「俺、今日は夜勤なんだ。付き合わない?」
「馬鹿を言うな」
「また馬鹿って言う」
「俺はもう帰る。それ以前に、お前に付き合う義理はこれっぽっちもない」
「……とことんつれないね」
「つれなくて結構」
「針刺すのがダメなら、ハーゲンに診てもらおうと思ったのに」
「外科医だろう。それくらい自分で診ろ」
「でも針刺すのはダメなんだろ?」
「……話が巡っているぞ。とにかく、俺はもう帰るから」
「……はあ。また明日な」
 そう、苛立ちが募るだけだ。
 あしらう気力も湧かないほどに。
「……明日、帰る前に俺のところに寄れ」
「なんだって?」
「三度は言わない。明日の朝、帰る前に俺のところに寄れ」
 放っておくこともできないほどに。


***


「肩を出せ」
「え?」
「さっさと脱げ。時間前に済ませたいんだ」
「……朝っぱらから大胆だな、お前……」
「……服を脱いで肩を出せと言っているが?」
 ピリピリした声音に応じて、いそいそとシャツのボタンを外す。袖から腕を引き抜いたところでハーゲンの手が肩に触れた。
 冷たい手だった。
 顔に似てほっそりした、優美な手。
(これで殴られると意外に痛いんだよな……)
 そんなことを考えている間に、ひやりとしたものが肩口を撫でる。
「刺すぞ」
「えっ?」
 ちくり。
「痛だっ」
「喚くな」
「おい、何打った?」
「ゼントーヤク」
「ゼントー? ……前投薬か?」
「それ以外の何がある。もし指先がしびれるようなら言え」
 麻酔の効きをよくするための薬。
 そういう知識はあっても、自分が今それを打たれる羽目になる理由は、まるで解らない。
「お前まさか、俺に麻酔かけようってのか?」
「それ以外の理由があるか?」
「前後不覚にして何をする気だ?」
 真剣に問うたのに、ハーゲンは額に手を当てて、はあ、と大仰なため息をついた。
「局部麻酔で前後不覚も何もあるか。お望みなら本当に全身麻酔にしてやってもいいぞ?」
「局部……」
「しびれがないようなら横になれ」
「えっ?」
「いちいち何度も言わせるな。裸足になって横になれ」
「ああ、うん……」
 ビニールシートが敷かれた診療台に、恐る恐る横たわる。まさかハーゲンに襲われるのではあるまいな、と、それはそれで少し嬉しいような複雑な期待を抱いたのも束の間。
「これから切開する」
「切開ぃぃぃ?」
「喚くな、と言っている。ついでに起きるな」
「だって切開ってお前!」
「……昨日針で刺したな」
「仕方ないだろ、痛むんだから」
「だからとっとと切って開いてしまった方がお前のためだ」
 ひんやり。
 なまじ知識があるために、空恐ろしいことに、感覚でハーゲンの行動が分かってしまう。といってもこの感触なら、注射の前に誰だって憶えがあるだろう。ただ今違うのは、それが単なるアルコールではないということだ。
 そう──麻酔だ、と思う間もなく。
「切るぞ」
「……ッ!」
 せめて言い終えてからメスを使ってくれ!
 針で刺すのとは違う、鈍い痛みが脳天まで一気に駆け抜け、メスの動き方までが勝手に目の前に浮かんできた。ぶっつりと皮膚を断ち切る様、膿んでいるだろう箇所をぐっと切り開く様、その他諸々。
 いっそ全身麻酔にしてもらった方がよかった。
 なんてことは、叫びだしたい衝動に押されて随分小さかった。麻酔で鈍っているとはいえ、痛いものは痛い。と言うよりかなり痛い。痛い以外の何がある。痛いったら痛いったらいいいいい痛たああああいいいぃぃ!
 意識が吹っ飛ぶのではないか、と、実際少し遠のいた気がしたとき、終わったぞ、とハーゲンの声が聞こえた。
「そのまま少し寝ていろ」
 言われなくても起きられません。
 息を詰めていたらしく、鼓動が早くなっていた。この数日ずっと感じていた、ずきずきする痛みは引いている。それは要するに麻酔が効いているということで、ハーゲンが爪の脇をぶっつり切り開いたということで、ということはつまり、傷がふさがるまでそれが痛むということだ。
「……大丈夫か」
「殺されるかと思ったよ」
「あいにくとそこまでしてやる義理はない。……大の男が泣くな」
 傍らに立ったハーゲンが、白衣のポケットから片手を出して俺の目尻を指先でこすった。
「泣くほど痛かった。叫ばなかっただけ自分でもよく我慢したよ」
「痛み止めと抗生物質を出しておく。落ち着いたら帰っていいぞ。傷口は濡らすな。あしたまた様子を診せてくれ」
「……ハーゲン」
「なんだ」
「ありがとう」
「……帰れ。患者が来る」
「ハーゲン」
「なんだ」
「すまないが起こしてくれ。気が抜けたら力が入らない」
「……馬鹿かお前は」
「馬鹿でいいから手を貸してくれ。帰って欲しいんだろ?」
 力が入らなかったのは本当だし、ハーゲンに引っ張られてやっと起きられたのも本当。けれどヒトの行動には、予測出来ない衝動とかそういうものもあって──。
 ばぎっ。
 首がよじれるほど、顔があらぬ方向を向いた。顎の骨に、衝撃に近い痛みが響く。
「ハーゲン!」
「お前が悪い!」
 詰る色は倍返しでハーゲンの方が濃い。そりゃまあ、予告も何も無しだったのは悪かったと思う。けど、だからって、こんな力一杯殴られるようなことか?
「さっさと帰れ!」
「帰るよ! 悪かったよ! だけどハーゲン──」
「これ以上話すことはない。五秒以内に出ていかないなら、もう一度麻酔して廊下に転がすぞ!」
「分かったよ! ──帰るよ。明日また来る。いきなりで悪かったよ」
「いきなりだろうがなんだろうがお前にそんなことをされるいわれはまったくない。──五秒経つぞ!」
 声音に剣呑な色が混じっているのを認め、これ以上──ましてメスで切られたりしないうちに、と急いで診療台を降りる。歩き出そうとしてぐっと足先に力を入れた瞬間、しかし激痛が走って一瞬硬直した。
「痛っつ……」
 思わずうめき声を漏らしてしまい、慌ててハーゲンを見るも、ハーゲンは整った眉をつり上げて俺を睨んでいた。
「帰る。帰りますよ。ホントに。けど、走れない。……勘弁して」
 言い訳のように、実際言い訳しながら、左足はかかとだけを使ってじりじりと後ずさる。ドアを開けて閉めて、ハーゲンの姿が視界から消えて、そこでやっと、いろんな意味でため息が出た。
 そりゃまあ、俺が悪いですよ。
 けど、でもさ? あんなに無防備なハーゲンもちょっとは悪くないか?
 唇の一瞬の感触に頬が弛むより、奥歯ががたつくほど殴られた痛みに顔をしかめる方が強かった。その点に関しては俺が無防備だったし、これ以上はないヒットだったと思う。まったく、歯の一本も欠けなかったところが奇跡的なくらいだ。
 ……ちょっと変わったかな、あいつ。
 男に冷たい、というより女にだけ異常なまでに親切めかしたところは相変わらずだけれど、前のハーゲンなら、わざわざ俺の面倒を見たりはしないだろう──しないはずだ、と思うのだ。
 しばらくフリーだという話だし──ひと晩遊ぶ相手くらいなら今も不自由はしないのだろうが──おかげで看護婦たちが日ごと夜ごとハーゲン攻略に精を出していて、それにそこそこに相手してやっているのも前と変わらず、だが、特定の恋人を持とうとしない点が決定的に違う。
 そりゃまあ、そうか。
(ヤるよりヤられる側の方が気に入った、ってことだよな……)
 看護婦ないし女に全然なびかなくなったのを見るのはある意味小気味よいし、俺が望んでいたことでもある。
 問題は、ハーゲンより俺自身にある。
 いや、とりあえず今の問題は、顎と足と両方痛いまま眠れるか、ということだな……。


***


「やっぱりちょっと変わったな」
 できるだけ顔を上げず、ほどいた包帯の内側が赤黒く染まっているのを認め、かろうじて上皮だけがくっついている様子の傷口を消毒液で拭く。指の先全体が浅黒くなってはいるが、数日もすれば元の色に戻るだろう。
「聞いてる? ハーゲン」
「聞いてはいるが答える義理はない」
「聞けよ」
「断る」
「あー、っそ。じゃあ俺の独り言でも良いよ」
 変わったというなら彼だって同じだ、と思うが、言葉にはしない。思いこみは相変わらず激しいし、突っかかってくるのだって変わりない。そして自分は相手にしない。そんな客観的な部分はこれまで通りだというのに。
「痛みは」
「そんなに無い。体重かけると痛いけど」
「膿は抜いたが、傷口がふさがるまでは痛むだろう。明日また来い」
「えー、ぺろっと薬塗って終わりー?」
「それ以外どう手の施しようがある。さっさと持ち場に戻れ」
「いやー、あんまり歩きたくないんだよなー。あからさまに変な歩き方してるし、看護婦のツッコミがなぁ」
「一日中椅子に座って患者の相手をしていればいいだろう」
「どうしてそうつれないかな。俺ができるだけお前と一緒にいたいっていうのが分からない?」
 一瞬。
 悪寒ともつかないむずがゆさが背中を縦に走った。
 初めてでは、無い。間の抜けた大告白を聞かされて以来、腹が立つほど率直で、それでいて何処かずれた感のある口説き文句(の様なもの)は何度も耳にしている。
 第三者がいるところで口にされないだけかなり及第点ではあっても、それが自分に向けられていると分かって喜べるものでは全然無い。というよりもむしろ、嫌悪すべきものでしかない。
 大体自分は、断じて男色家ではない。
 ルイーズが例外なだけで、男に自ら体を開くような真似はあり得ないのだ。
「……気味の悪いことを言ってないで、早く俺の目の前から消えろ」
「……そこまで露骨に嫌がられると、かえって疑るぜ? ずーっと二人きりでいたら、ハーゲン先生は俺を受け入れてくれるのかな──」
「貴様──」
「そーゆー生意気そうな顔が───ひぎゃぁぁぁぁぁ!」
 医師として、やってはならない行為のひとつだと思うが、この男にそんな道理は要らない。
 左足を抱え込んで悶絶する彼の、襟首をつかんで診療台から引きずり下ろし、ずるずるとさらに引きずって廊下に押し出す。脱いでいた靴も叩きつけて、ぴしゃりとドアを閉める。ドア越しの背中に、声にならない彼のうめきを感じ、少し強く握りすぎただろうか、と軽い反省を覚えて、利き手の平を見た。
 絆創膏から染み出したのか、わずかに血痕のようなものが着いている。ふさがりきらない傷が開いてしまったかも知れない。昨日の今日の傷なら、絆創膏だけで出血を止められるだろうか──。
 ──彼だって、医者だ。
 あの程度の外傷に対処する術を、知らないとは言わせない。
 悲鳴を聞きつけたのか、転がっている彼を見つけたのか、看護婦の声が聞こえた。彼が何か答え、立ちあがるだけにしては充分すぎる時間をおいて、変則的な足音が遠ざかっていく。いっそ事態を正直に暴露した方が、看護婦のサポートも受けられるだろう。案ずることはないではないか。
 胸が痛むのは、感情に流されて褒められない行為をしてしまった自責の念だ。
 あんな男に。
 あんな男なんかに、この、自分が。
 苛つかされているという事実がさらに苛つく。うろたえるのは、苛つくのは彼の方で、ほんの少しで自分が競り勝つ。いつだってそうだったではないか。
 いつだって、そうだ。
 これからも。
 優位に立つのは、自分の方であるべきなのだ。
 そしてそんな自分の優位に立つのは──。
(ルイーズ……)
 呼ぶだけで胸の中に火がつくような、恋人の甘い名を、舌の上で小さく転がす。
 出会ったときからの圧倒的優位は、今も変わらない。だからこそ身も心も委ねられる。ルイーズだけが特別なのだ。
 誰でもいいわけじゃない。まして、あんな男に自分が振り回されるなんてあり得ない。そうだ、明日だけ診てやったら後は本人に任せよう。彼だって医者なのだから。


***


 一日数分の逢瀬。
 といっても同じところに勤めている以上、顔を合わせることはよくある。けれどそれは姿を見たとかその程度のもので、言葉を交わすには至らないし、そういうのは「会う」とは言わないのだろう。
 包帯を外して、傷の具合を診て、消毒してから薬を垂らし、絆創膏を巻いてまた包帯を巻く。傷口は濡らすな。あしたまた来い。それがハーゲンの決まり文句。
「まだ駄目かよ?」
「自己責任なら何をしてくれてもいいが? その場合俺は関知しないから」
「ここ濡らさないようにするのって結構大変なんだよな……昨日なんかバスルームで危うく溺れたよ」
「単に運動神経が鈍いのだろう」
「優しくないねー、怪我人に向かって」
「お前に優しくする義理はない」
 いやいや充分優しいですよ、ハーゲン先生。
 以前のお前なら、男の患者なんてそもそも診ないでしょう。
 赤黒くなった患部。この数日で膿は大体出尽くしたと思うのだが、腫れも引かないし、血漿のようなものがまだ少し絆創膏のガーゼにしみ出している。痛みはしても歩くのに支障はなくなったし、快方に向かっているのだと思いはするものの。
 むしろあんまり早く治れば、俺がハーゲンに会いに来る口実もなくなるんだよな……。
 いや違う。ハーゲンが俺を呼びつける口実、だよな。俺だって医者だし、まして足なら自分で診ることもたやすい。でも切開の翌日にハーゲンが傷口を開いたのも事実だと思うし、その責任くらいはとってもらわないと、だ。
 いやでも治療なんてのは医者としての義務だし、もっと他の詫びようってものが──。
「俺今夜当直なんだ」
「そうか」
「付き合わない?」
「は?」
「深夜とかヒマじゃない?」
「ヒマなくらいの方が良いだろうが。第一お前に付き合って俺になんの得がある」
「得か……うーん、そうだな、セックスしようか」
「は?」
「一度くらい試してみない?」
「なぜ俺がお前なんかに抱かれなくてはならないんだ」
「あ、抱かれる側がいいんだ?」
 瞬間、ハーゲンの白い頬が赤く染まった。
 分かってるよ、それくらい。
 おまえが男に抱かれるようにし向けたの、俺だもの。
 男同士ってのはリバーシブルだと聞くが、ハーゲンはそうじゃないみたいだな……。
「遊び人のお前が、おんなじ相手だけっていうのも飽きるだろ。一度くらい俺とヤッてみても損はしないと思うけど」
「……損するに決まってるだろうが!」
 抱かれている、と言うことを今更弁解はしないらしい。そういう強気なところが腹の立つ奴だし、裏を返せば可愛いところでもある。
 普段強気な奴というのは、折られると立ち直りに時間がかかるのだ。
 その点俺はお前に折られっぱなしだし、お前よりタフだぞ絶対。
「どうかな。医者だし、身体のことはひとより解ってるつもりだぞ」
「知識だけでセックスができるわけないだろう? 馬鹿かお前は」
「だから実技をしてみようと言ってるんですがハーゲン先生? それとも何、俺にヤられるのが怖い」
「なんだと……」
「遊び人のくせにそんな可愛いことは言わないよな」
「……そこまで言うなら、よっぽど腕に自信があるんだろうな」
「お前の体で確かめろ」
 ……いやいやホントに乗るとは思わなかったな、ハーゲン先生。
 強気な奴ってのは、熱くなるとまわりが見えない。裏を返せばそこがお前の弱点なんだ。


 服は脱がない、とハーゲンが言い、それでいい、と俺も答える。場所が場所だし、言い訳出来る状態を少しでも保っておくに越したことはない。
 わずかな明かりを、互いの白衣が反射する。抱き寄せたハーゲンの体はやっぱり少しごつかったし、なんとなく強張っているようにも思えた。
 そりゃまあ、俺だって初めてです。男相手は。
 どっちかって言えば俺の方が緊張してると思います。
「……キスはするな」
「えーなんでー?」
「する必要がないだろう」
「あるよ! 何お前いつもいきなりヤっちゃうわけ?」
「……抱かれてはやる。それで文句ないだろう」
「……いいけどさあ……何、全然駄目なの? キス」
「唇以外なら。さっさと済ませたい。始めてくれ」
 ……淡泊なんだかロマンチストなんだかわっかんねー。
 高級娼婦なんかだと、体は許してもキスはしない、という話を聞く。心まで明け渡す訳じゃない。そういう意味合いなんだそうだ。
 いいよー別に、あのエージェントに義理通しても。
 お前がこうやって俺に体だけでも許すのも、あいつの影響なんだろうしさ……。
 ハーゲンのネクタイをゆるめ、シャツのボタンを外す。本当に体だけは許すらしく、俺が手を突っ込んでもハーゲンは抗わなかった。
 柔らかくも大きくもないが、なめらかな肌の上を手のひらで探る。胸の突起に軽く爪をかけると、意外にもハーゲンがびくりとした。
 ……感度いいんだな……。
 っていうかあのエージェントに開発されちゃったりしてる? もしかして。
 トラウザーズのジッパーを下げ、下着の上から軽く撫でる。さすがにそこはまだ勃っていなかったが、すでに熱を持ち始めていた。布越しの刺激に、ハーゲンが軽く息を詰める。とりあえず殴るとかそういうことはないらしいし、俺も遠慮なく、直にそれに触れた。
 壁に背中を押しつけるようにして、立ったままの体を支える。下着ごとトラウザーズを下げると、外気にさらされたそれが一瞬だけ震え、それからみるみるうちに硬度と長さを増した。
 ハーゲンが俺の肩をきつくつかみ、額を押しつける。堪えているのが分かるくらい、息が上がっていた。いやそうな口ぶりだったくせに、ほんとに感度がいい。
 自分以外のそれに触るというのは、仕事柄ないわけではないが、有機的な理由でってのは学生の頃の悪ふざけ以来だし、ちょっとした抵抗と罪悪感があった。自分に起きる現象を他人の体で感じるというのも、変に生々しい。そもそも俺はハーゲンが好きなだけであって、他の男で性欲を満たしたいなんてことは一度も考えたことがない。
 指の腹がぬるりとすべった。
 脈打つ血管の筋まで指先で読みとれそうな、熱いかたまりの先から、まだそれほど粘性のない雫が伝い降りている。手のひらでそれをまぶすようにハーゲンの雄を軽く握ると、ハーゲンが目に見えるほどびくりとした。軽くしごくと、皮膚と皮膚の間でちゅくちゅくと音がした。
「……ッ」
 ハーゲンがすがるように俺の白衣の肩を握り、引く。後ろ襟が延髄のあたりを圧迫し、俺も勢い前屈みになる。まっすぐ立っていられなくなったのか、ハーゲンの背が壁をずり落ち、支えようとして咄嗟に手をかけたのが腰に近い臀部で、思いの外強くつかんでしまった所為なのか、もう片手の中の雄がピン、と跳ねた。
「まだ立てるか?」
「……余計なお世話だ。お前がさっさと終わらせればいい」
 ……いやいやいや素直じゃないなー。
 息だって上がってるくせにお前はさー。
 ていうかそれって、お前が俺にさっさとイかされるってことなんだぞ? そういう前後関係を分かってますかハーゲン先生?
「じゃお言葉に甘えるから」
 後悔するなよ、とは心の中だけで呟いて。 
 
 
***


 壁の方を向かされ、彼に無防備な背後をさらすというのは、この場合到底同意したいものではなかった。だが顔を見られないという利点もある。正直なところ、最後まで自分の脚で体重を支えられる自信はあまり無かった。腹立たしいが、この男の指にさえ、反応している自分がいる。
 白衣とシャツをたくし上げられ、剥き出しになった腰を夜気が撫でた。遠慮がちにも思える手つきで、彼の手が臀部を軽く開く。少し固いものが擦れ合う軽い音がした。彼の行動を音でしか量れないことが、いやが上にも次の予測を加速する。
 その所為か、それとも彼の指が実際に双丘に触れた所為か、その奥で蕾が震えるのが自分でも分かった。
 双丘の丸みに沿うように手のひらを当て、割れ目に中指が潜り込んでくる。敏感な部分の上を何かがつうっと伝い、彼が軽く指を上下するのに合わせて濡れた音を立てた。
「やっぱり少しは慣らした方が良いんだろ?」
 実に無遠慮に、無神経に、彼が後ろから訊いてくる。傷のある方の左足を踏んでやろうかと思ったが、下手に動くとトラウザーズが足首まで落ちそうで、そっちの方が怖かった。
「痛かったら言ってくださいねー」
 さらに神経を逆撫でする発言をして、彼の指先が入り口に当たる。一瞬、妙にひやっとした、人肌ではない感覚があって、それがなんなのかを考えているうちに、その指が蕾にめり込んだ。
(うッ……)
 声は堪えても、体が一瞬強張ったのまではどうしようもなかった。嫌悪なのか、それとも快感からなのかは分からない。あの熱くて太い楔(くさび)が打ち込まれるのとは違って、指で弄(いじ)られるのには一種独特の感覚がある。
 入るかどうかを確かめでもするかのように、入り口付近でとどまったままの指が、くいくいと掻き回される。腑(はらわた)を直接弄られているようで気色が悪かった。手術中の患者にもし意識があったなら、ちょうどこんな感じなのかも知れない。
「もう一本いける?」
「……いちいち訊くな」
「正直何本までいける? ああでもコレが入るくらいだから三本はいけるよな」
 問うておきながらひとりで勝手に答え、最初の指が抜けた。思わず息をついた次の瞬間、蕾に意外な冷たさを感じ、びくり、とした。
「ああ悪い、冷たかった?」
「お前何を……」
「やっぱりこういうときってワセリンかなーって思って。良かったな、ここ病院で。じゃ入れるぞ」
 ぬるり、とした感触で、今度は止まることなく指が侵入してくる。さっきの固い音は、ワセリンのボトルを開けた音に違いない。
「……まだ先あるな」
 揃えた指をまたぐにぐにと遠慮なく中で動かす。ワセリンと皮膚が馴染んできたのだろうか、くちゅくちゅと淫らな音がし、わずかな音にもかかわらず、まわりがしんとしている所為で、まるで部屋中に響いているようにさえ聞こえ、耳の縁がかっと熱くなった。
 要するに、屈辱なのだ。
 この男相手にそんな様をさらしていることが。
 ルイーズ相手なら、この程度のことは苦ではない。自分の体が悦(よろこ)んでいること、それをルイーズに言葉でなくても伝えられることが嬉しい。ルイーズにそうしてもらうこと自体、自分にとっては至福なのだ。
 今は違う。
 悦んでなどいるものか。
 外からの刺激に対して、単なる生理現象を起こしているだけだ。
 女性ならまだしも、ルイーズ以外の男にこんなことをされて、気持ちよくなるはずがないではないか。
「ッ……!」
 ある意味無防備だった部分を刺激され、全身の血が泡立つような悪寒を覚えた。一瞬で動悸が速くなり、呼吸が短く荒くなる。抑えようとして無理に息を飲み、空気のかたまりが器官を軋ませる。
「……ここ、感じるな?」
 その反応を彼が見逃すわけもなく、声音に含み笑いが混じった。ゆっくりと指の腹で撫でるように、あるいは爪の先で掻くように、執拗にその場所を刺激する。かろうじて声は上げないものの、感じてしまっているのは隠しようもなかった。
 生理現象だ。
 男はそういう風にできているのだ。
 相手が誰であれ──たとえばこの男だって、同じことをされたら同じように──。
 あの夜のように。
 明かりのついた診察室。媚薬混じりのとろりとした液体。──それから聴診器。
 拘束されていいようになぶられて、それでも快楽に溺れられたのは、相手がルイーズだったからだ。
 ルイーズになら、この男だって同じように──。
「お前さー、後ろだけでイける?」
 この期に及んで、場違いとも言える呑気な声に、一気に現実に引き戻される。絶え間ない刺激の所為で幾分朦朧としていたらしい。しかしそれによって、また新たにすさまじいほどの快感を感じてしまい、喘いでしまうのを止められなかった。
「イけそうな気もするけど……」
 と、彼が背後から空いた手を回し、与えられる快感に蜜を零しているモノを軽くさする。いやでも彼と体が添い、彼の体温、息づかいまでが近くなり、一瞬めまいを覚えた。
「……入れて欲しいならそう言え」
 抜いたり入れたり、中で指を開いたり、好き放題後ろを弄びながら、耳元で彼が囁く。彼も気が高ぶってきているのか、熱い呼気を耳朶に感じ、またぞくりとしたものが背中を這い上がっていった。
「意地はるな」
「誰が! もう気は済んだだろう? 早く私を解放しろ!」
「……。これくらいで気が済むかよ。俺はずっと我慢してたんだぞ? お前こそ、軽はずみなこと言ったと思わないのか? まったく、挫折知らずの奴はこれだから困る──」
 ──それとこれと何か関係があるのか?
 言い返そうとしたものの、指を引き抜かれて言葉が詰まる。彼がトラウザーズのファスナーを下げる音が耳に届き、間髪を入れずに臀部を両手でつかまれた。一気に突き入れられるのでは、という恐怖に、反射的に体が強張る。
「あっ……」
 ぬちゅり、と淫猥な音を立てつつも、彼は挿入しようとはせず、固く反り返ったモノを双丘の間に割り込ませ、女性の胸でそうするかのように擦り上げた。指とは違う感触が蕾の上すれすれを通過していく感覚のじれったさに、思わず声を漏らしてしまい、慌てて唇を噛んだ。つかみ所のない壁の上で、何かをつかむかのように拳を握る。
「欲しいならそう言えよ」 
 彼がそれを聞き留め、動きをゆるめて耳元で熱っぽく囁いた。答えるものか、と奥歯を噛み締める。彼は体を密着させるようにして腰をつかんでいた両手を前に回し、鼠頸部をそろそろとなぞりながら、その真ん中にあるモノを包むように握った。
「お前の体の方は、随分物欲しそうだったけど?」
 ──あり得ない。
 生理現象に決まってる。
「あんまり反抗的だと可愛くなくなるぞ」
「お前に可愛いなんて思われる方が不愉快だ!」
「あーそうですか」
 熱い。
 剥き出しの粘膜同士が直に接し、熱や堅さ、脈までもがダイレクトに脳に流れ込んでくる。その熱いものをくわえたくてたまらない、というふうに、双丘の奥で蕾がひくひくとうごめいているのが自分でも分かる。まるでそこだけが自分の意志を離れた生き物のようだ。
 いつから自分は、こんなに見境のない体になったのだろう?
 ルイーズの卓越したテクニックにならともかく、こんな男にさえこんなに物欲しそうに反応してしまうなんて。
 この男が何人もの女性と付き合っていたことは知っている(何しろそのほとんどは自分になびいたのだから)し、だからそこそこ経験もあるのだろう、ということも分かる。けれど恐らく初めて扱うだろう同性の体をまさぐる手つきは決して巧みとは言えず、それを勢いだけでフォローしようとする荒々しさの中には、ルイーズの持つ優美さなどかけらほども見いだせない。
 こんな、無理矢理犯されるに等しいような状態で、自分は何をこの男にねだろうとしているのだろう。
(──違う)
 ここしばらくルイーズと肌を合わせていないから、それで過剰反応しているだけだ。
「あ、そうか。入れて欲しくはないって訳だよなうん。じゃあお前の言うことを聞かないというのもそれはそれでいいかも」
「な────あ、うあッ……!」
 何を勝手なことを。
 結局お前が入れたかっただけじゃないか。
 しかし、指でほぐされ、ワセリン越しに焦らされた蕾は、そんな抗議を言葉にできる余裕も与えないほど易々と、彼のものを飲み込んでしまう。入り口を無理に広げられる違和感も、狭い中をいっぱいに満たす凶暴な熱も、さっきからずっとずっと欲しくてたまらなかったもの──。
「──お前の体はこんなに欲しがってるのに」
 ──根本まで入った。
 それが分かるほど、自分の体はそこでのセックスに慣れている。
「そういう素直じゃないとこが案外可愛いんだけどな……」
 勝手なことをなおも言いながら、彼がぴったりと体を重ね、前を軽くしごく。後ろが満たされているというだけで、感度は数倍になる。手のひらだけでは支えきれず、額を壁に押しつけて頽(くずお)れそうになるのをようやく堪えた。まぶたを閉じた闇の中に、様々な色の火花が散り、耐え難くなって目を開ければ、彼の両手に握られたまま白濁を零し続ける自分のものが目に入った。
 あり得ない。
 こんな現実はあり得ない。
 下半身にくすぶり続ける高熱で、目の前が霞む。そうだ、これはきっと、淫らな夢に違いない。こんなもの、早く終わってくれ──。
「お医者さんの言うことを素直に聞かないひとには、ちょっとは仕置きが必要だよな、ハーゲン」
 挿入したまま動きもせず、執拗に前だけを彼が攻める。もっと気持ちよくなりたい。早くイきたい。イってしまえばこんな夢もきっと終わる。
「……急に積極的になったな」
 からかうような調子の声も、耳から滑り込んで頭の中を甘く刺激するだけだ。ご要望にお応えして、とか何とか、そんなことも囁かれたような気がして──。
「ひぁ──あ、ああっ!」
 たった一度強く突き入れられただけで、体中がスパークした。
 反射的に固く閉じたまぶたの裏に、真っ白な闇が炸裂する。彼に握られたままのものからの、熱いほとばしりを感じた。
 ──闇が黒くなるまで、どれほどの時間が経ったのか。
 何かが床にしたたり落ちる微かな音につられるように、遠のきかけていた意識が少しずつはっきりしてくる。息はまだ荒く、動悸も速かった。さして広くもない部屋に、欲情の匂いが立ちこめている。先ほどから滴っているのは、彼が片手の平で受け止め、そこからあふれた自分の白濁だった。
 しびれるような余韻と倦怠感に、壁に体を押しつけるようにして身を支える。冷たさが火照った頬に心地よかった。
「……それじゃ、お仕置きと行きますか、ハーゲン先生」
「え?」
 予想しない言葉に、思わず振り返る。まだ打ち込まれたままだった熱い楔がずるりと抜ける感触に、それ以上体を動かせずに逆に硬直してしまう。
 その半端な体勢のまま顎を捉えられ、体を半分ひねられ、そこに回り込むようにして彼に唇をふさがれた。
「んッ……」 
 抵抗する間もなく、彼の舌が歯の間を割り、荒々しく掻き回す。息が止まるほど強く吸い上げられ、くらりとした。
「やめ……」
 まるで噛みつくような勢いで、再び言葉を遮られる。唇の端から唾液が筋を作って流れ落ちた。イったばかりの倦怠感に加え、酸欠を起こしたのか、目の前が暗くなった。
 ──だからキスされたくなかった。
 ルイーズのときもそうだった。抗う気持ちがキスで吹き飛んでいった。この酸欠状態がいけないんだ。確実に思考能力が落ちる。
「……離せ……」
「いやだよ」
「もう満足しただろう」
「おまえだけイっちゃってそれはないだろ。それじゃ全然お仕置きになってないし……さーて、抜かず何発ヤれるかな」
「何だと……!」
「お前の言うことは聞かない」
「ば────っあ、……」
 抗う気も、堪えるだけの気力も、もう無い。
 なすがままに貫かれ、零れてゆく喘ぎが、次第に甘さを増していることだけがなんとなく分かった。
 


 ──昼休みに抜け出してシャツを取り替えても、肌の表面がそそけだつような苛々は治まらなかった。
 サイズは合っているし、なんの変哲もない洗い立ての白いシャツだ。借り物だなんてことは、傍目にはまず分からないだろう。
 自分が軽はずみだった。あまりにも迂闊だった。あんな男の安い挑発に乗るなんて。
 目が覚めて、そこがまだ仮眠室で、しかも明るくなるような時間だったなんて、不覚以外のなにものでもない。彼が帰宅したおかげで、一日姿を見ないのがせめてもの幸いだった。
 あんな男に。
 ──いや違う。お互い楽しんだだけだ。何度もイかされるなんて、ルイーズとの間でもよくあることだ。相手があの男なだけで、今までセックスした女性と何ら変わりはない。
 お互い楽しんだだけだ。
 気が遠くなるまで、何度も。


***


 ……やっぱりハーゲンにやってもらった方が良い。
 同じ薬だし、やってることも同じだが、人のいない診察室で体を屈めて足の指をいじっているというのは、傍目にもちょっと哀しい。
 露骨に避けられているのは分かるので、俺としても一応、責任というものを感じていたりはするのだ。
 ノックの音に、俺は顔を上げずに答えた。
「どうぞー」
「失礼する」
「っハーゲン? うぁ痛たぁ!」
 ……傷はふさがったんだよ、傷は。
 ぶつけたりすればものすっごく痛いだけで。ものすごく。
「返しに来た」
「? ……ああ、シャツか。くれてやるって言ったのに」
「足りてる」
「そーですか。……ああ、悪いな、こんなちゃんとプレスしてもらって」
「傷は?」
「今はものすごく痛い」
 どうしてそこで。
 お前は帰らずにそこにいる。
「わざわざ返しに来るなんて、どういう風の吹き回しだよ? 一日散々避けておいて」
「ついでに傷を診に来ただけだ」
「それは有り難い。……けど、今日の分はちゃんと薬塗ったから」
 帰るなら帰れよ、ハーゲン。
 そうじゃないと、都合のいいように解釈するぞ。
 っていうか、します。もう。
「理由つけてやってきてくれるなんて、それは俺のことが気になってると思っていいのかね」
「馬鹿を言うな。さっさと足を出せ」
 有無を言わせず座らされ、せっかく巻いた包帯をいとも簡単にはぎ取られる。傷の具合を診ているハーゲンは、心なしか上の空に見えた。
「……おととい、悪かったよ」
 俺の声が初めて届いたかのように、足に触れていた指先がわずかにぴくりとする。
「詫びるようなことなら最初からするな」
「うん、まあそうなんだけどさ……我ながら悪ノリしたと思うから、謝る」
「悪ノリで済むなら警察はいらん」
「だから、ごめんって」
「……お前が」
「うん?」
「お前があんなにしつこいセックスをする男だと思わなかった」
 やっと聞き取れるくらいの声で言って、何事もなかったのかのように包帯なんか手にとって。
 結局お前、ちらっと診ただけで何もして無いじゃないか。
「だから、悪ノリした、って。最初で最後かもしんないって思ったら、勿体なくてさ。それにお前が予想外に可愛かったから」
 ぎち。
 そそそそんなに強く結ばなくてていいですハーゲン先生。
 だけど俺、誤解するよ?
 この傷理由にして、お前が俺に会いに来た、って。
「もしかして、痛むか? 加減とか考えなかったし……」
「違和感があるだけだ。痛いわけじゃない」
「痛くないんだ? それはそれで何というか……そういうカラダなんだな」
「……何が言いたい」
 そりゃお前、そっちの方が驚きだってことですよ。
 ハーゲン先生は、多少苛められても平気なカラダになってるわけだ。
 もとはといえば俺が頼んだことなんだが、サービス精神旺盛なんだな、あのエージェント……。
「お前が女と付き合わなくなったのって、ヤるよりヤられる側の方が気に入ったってことなんだと思って」
「何を馬鹿な」
「俺とするのも悪くなかっただろ?」
「馬鹿を言うな。お前があんまりしつこいから相手をしてやっただけだ。大体私にはルイーズという恋人が──」
「あいつは恋人じゃない」
 言葉を遮ったからか、真っ向から否定したからか、ハーゲンは目を剥いた。
 恋人なんかじゃない。
 お前はあいつにとって──。
「じゃあなんだというんだ」
 ターゲットとエージェント。
 そんなことは、まして自分が依頼人だなんてことは、口が裂けても言えはしない。
 けどな。
「お前があいつを恋人だって思ってるだけだろ」
「そんなことはない──」
「そうだよ。だってあいつには、ほかにもお前みたいな相手、いるんだぞ」
「お前が彼の何を知っている」
「評判くらいは知ってるよ。交友範囲の広さもな」
「彼は一人の人間に縛られていないだけだ」
「お前が彼女を取っ替え引っ替えしてたみたいに?」
「私は好んでそうしていたわけでは──」
「結果としては同じだろ。たくさんいる中の一人、そういうことだぞ」
「──」
 痛いところを突いたのか、突いてしまったのか、ハーゲンは言葉に詰まった。
 我ながら悪あがきだという気は、する。
 このハーゲンがそういう風に扱われることも、俺の望みだったはずなのに。
「俺なら、お前一人を愛してやれるのに」
「やめてくれ。私にそんな趣味はない」
「そんな趣味だって? あの男に骨抜きにされておいてよく言う──」
 ぱちん。
 予測されたハーゲンの拳を、俺は両手で受け止め、そのまま握った。
「少なくともお前の体は、あいつじゃなくたって構わない」
 相手をしてやっただけだ、って?
 だとしたら随分、隙があるよハーゲン先生。
「口でどーこー言ったって、お前の体で答えは出てる。それとも何か、好きでもない奴でも、抱いてくれるなら誰でもいいのか?」
「そんなはずがあるか!」
「だったら、お前は多少なり、俺に気があるというわけだ」
「……そんなはずがあるか」
「なら、ただの淫乱だな」
 っていうかもともと遊び人だしな。
 だけど最近のお前は、遊ぶより遊ばれる方が似合ってる気がするよ。
 ただその相手は──。
 どがっしゃん。
 俺の手をふりほどいたハーゲンが、バットでも振るような感じで、両の手を組み合わせて、思い切り俺をなぎ払った。椅子ごと俺は吹っ飛び、いろんなものをついでにひっかけて派手な音を立てる。結構な衝撃にすぐには立てずにいると、平たくて軽い、だが紙よりは明らかに重量のあるものがべっしゃりと顔に叩きつけられた。
「……失礼する!」
 らしくなく、乱暴にドアが閉まる。ぶん投げられた、プレスされたシャツには、俺の切れた唇からの血が付いていた。
 

***


 他愛のない話の接ぎ穂も探せなくなった頃、ルイーズがそっと、用があるのでは、と問うてきた。
 考えてみれば、ルイーズの元におもむいたのはこれが初めてだ。それだけでも、ただ茶飲み話に来たのではないことくらい察せられるだろう。
 ──あいつにはお前のほかにも恋人がいる──。
「……君には」
 問いかけてはみたものの、ルイーズの瞳に一瞬言葉が詰まった。先を促すように、ルイーズが軽く頷いてみせる。
 こんなことを、訊いてどうしようというのだろう。答えもなんとなく分かっている。ベルティに言われるまでもなく、そんな気はしていたし、それでもいいと思っていた。
「君には……ほかにも恋人が?」
 どんな言葉を予想していたのか、ルイーズは一瞬目を見開き、すぐに優しく細めた。
「おつきあいさせて頂いている人はたくさんいますよ」
「私のように?」
「あなたの代わりになるような方など、おりませんが」
「そうじゃなくて……」
 ルイーズが声を立てずにわずかに笑う。自分の言いたいことなど、彼にはとうにお見通しなのに違いない。
「あなたが一番ですよ──と言ってもらいたいのですか」
「そういうわけじゃ」
「可愛いひとだ。あなたにとって私が一番。それで良いのではないですか?」
「それは、そうだけど……」
 言葉が続かない。自分でも彼に何をして欲しいのか、分からないのだ。
 ルイーズは穏やかな笑みを浮かべたまま、黙ってこちらを見ている。眼差しが服をすかして、まるで肌の上を直に触られているかのようだ。
 いくら久しぶりに会ったからといって、これではまるで。
「……そんなに物欲しそうな顔をして」
 テーブルを挟んで座っていたルイーズが、すっと席を移す。体が沿うように触れて、握りしめていた拳の上に、優美な手が重なった。
「あなたのそういう素直なところが可愛いです」
 耳元で囁いて、ついでのように耳朶を甘噛みする。全身に甘い電気が流れ、それだけで達してしまいそうな気になった。
 しなやか指先で、くいと顎をひねられる。瞳を見てしまうのが怖くて、咄嗟に目を伏せた。ルイーズの体温がふわりと鼻先を掠める。
「好きなひとでも出来ましたか?」
「えっ?」
 口づけではなく、そんな問いを与えられ、反射的に目を開ける。睫毛の一本一本まで見て取れるほど、ルイーズの顔はそばにあった。
「あなたが欲しいのは、私の言葉ですね。あなたを私に縛り付ける言葉」
 ぎくりとした。息を飲んでしまったのが、ルイーズの指先には伝わっただろう。あまりにも近くて、彼の瞳に自分が映っているのさえ分かる。目を反らしたかった。
「本当に可愛いひとだ。あなたが望むなら、私はいつでもあなたを縛ってあげますよ」
 ルイーズの瞳が揺れた。
 いや──自分が揺れたのだ。
「……君が自ら進んでそうしてくれるわけではないんだな……」
 口づけを求めて弛んでいた唇が、それ以上震えないように強く噛む。ルイーズが両の手のひらで頬を挟み、額を合わせて優しく囁いた。
「自ら進んでベッドにお誘いしますが?」
 ──これが欲しかったのに。
 抱いて欲しくてここまで来たのに。
「病院に戻らないと──」
 甘噛みの余韻は確かに体の奥にあるし、こうして軽く触れられているだけでも、全身が悲鳴を上げているのが分かる。今すぐこの場で激しく抱かれてもいい。そう強く願う自分もいる。それなのに。
「……戻らないと」
 ルイーズの手をできるだけそっとふりほどく。立ちあがる自分をルイーズは引き留めなかった。
「……あなたが望むときに、いつでもいらしてくださっていいのですよ、ハーゲン」
 ──それが見送りの言葉だった。


***


「お前にしては随分控えめな対処じゃねーか」
「立ち聞きとは趣味が悪いですね」
「座って聴いてたぜ。なあティグ」
 ワン、とティグが鳴き、むやみとしっぽを振る。空になった客間のソファに、キアはどっかりと腰を下ろした。
「ベッドに連れ込んだ方が良かったですか? あなたに妬かれるのはいやですよ」
「妬きゃぁしねえよ。ま、今夜ちっとばかし扱いが荒くなるかも知れないが」
「ターゲットにいちいち妬いていたら、あなたの体が保ちませんよ? それに仕事にも差し支えます」
「俺よりお前の体が保たねーかも知んねえなぁ」
 獰猛な笑みを唇の端に浮かべて、さらりとそんなことを言う。彼が自分を乱暴に扱うことはないだろう。そう分かっているけれど、そんなふうに言われるのは少し嬉しい。
(ホントに仕事に差し支えますけどね……)
「しかしさ、さっきのヤツ、結局何しに来たんだ? 抱かれに来たのかと思えばさっさと帰っちまうし」
「抱かれに来たのだ──と思うのですけどね。拒まれましたから、仕方ありません」
「だからさ。なんで拒む必要があるんだよ」
「ほかに惹かれる相手ができたのでしょう。でも惹かれていいのか迷っている。だから私の言葉が──引き留める言葉が欲しかったのだと思います。──そうすれば彼には理由ができますからね」
「そんなもんかね? だったらなんで引き留めてやらなかったんだよ」
「なんとなくその方が良いような気がして」
「変なヤツだな。お前はそれでいいのかよ?」
「別の誰かに競り負けるのは嬉しいことではありませんが──依頼は果たしましたし、私は気にしませんよ」
「依頼って、たしかあいつをお前に惚れさせる、だろ? あいつがほかの女に心変わりなんかしたら、依頼人が困るんじゃねーのか?」
「少し違いますよ、キア。彼が、女性に興味を持たなくして欲しい、です。男色家にするのが手っ取り早いわけですし、私がそのお相手を務めたまでのこと」
「? ……じゃぁ、惹かれる相手ってのは」
「勿論、男性でしょう。だから彼は迷っているんです。女性の扱いなら、今の彼でも充分お上手でしょうし。そもそも彼が男色家であろうが無かろうが、女性が彼に惹かれてしまうのであって──依頼人もその辺を少し取り違えているような気はします。
 要は依頼人の恋人が、彼に惹かれなければいいのですけど、あの通り魅力的な男性ですしねえ」
「……でも確か、その依頼人って」
「私の目の前で一世一代の大告白をしてましたね」
「あいつにだろ?」
「ええ、彼に」
「無謀というか大胆というか……いろんな意味で取り違ってるヤツだな」
「ええ、まあね。でもまあ、暴挙に及んだだけの甲斐は、少なからずあると思いますけど」
「え? じゃああいつが迷ってる相手って、その間抜けな依頼人なのかよ?」
「希望的推論ではないと思います」
「お前がそういうならそうなんだろうが……それでお前は身を引くというわけか」
「謹んでお譲りいたします、というだけですよ。可愛い方ですが、ほかの誰かと比べられながらおつきあいするというのは、余り好ましくありません」
「まあなんにせよ、依頼人とターゲットのフォローも仕事のうちだしな」
 納得したのかどうか、それらしいことを呟きながら、キアは腕を組んでうんうんと頷いた。
「ああそれから、キア」
「うん?」
「私の一番は、あなたですからね」
「ははっ、俺の一番も当然お前だからな」
 それ以外あり得ないという感じの明るい笑みをキアが浮かべる。そんなタイミングを見計らっていたのか、本当に単なる偶然なのか、お茶が入ったとギャラハーの声がした。


***


 怖かった、のだ。
 一度でもほかの男に抱かれた体を、彼の前にさらすのが。
 訳を話せば、彼は赦してくれるだろう。けれど、自分があの男に合意したという事実は変わらない。
 赦してくれるのだって、彼にとって自分が、それほど特別でない存在だからかも知れない。
 だから追わない。請いもしない。いつだって相手はしてくれる。けれど、それも自分が求めるからのこと。
 いいように揺さぶられて、惑わされて、自分の中が彼のことでいっぱいになって、それでもいいと思っていた。


***


 ……まずあり得ない状況というのは、疑ってかかるべきだ。
 いつもそうだ。そこで舞い上がった次の瞬間にどん底に叩きつけられるのがオチなんだ。このハーゲンのおかげで、俺の人生はいつもそうだった。
 この数日間ずーっとずーっとずーっと、完全に俺を無視しきっていたハーゲンが、俺の隣でグラスを傾けているなんて状況は、普通は絶対、あり得ない。
 そもそもハーゲンが酒に男を誘うこと自体、あってはならないのだ。
 おまけに黙ってるし。
 やたら強い酒ばかり頼んでるし。
 考えてみれば俺はハーゲンがどれくらい酒が飲めるのかを知らない。そこそこいけるクチだということくらいは余所から聞いてはいるが、相当いけるという話は聞いたことがない。
 疑う要素がありすぎて、結果的に俺も黙っている。ずーっとずーっと無視された原因も分かっているし、そうされるってことは多分図星だったんだろうし、だったらハーゲンがそれを認めるまで持久戦だなあと思っていたし。
 白旗が揚がるのか、決戦申し込みなのか、それも分からない。
 しかし何だ。この場合俺は、そろそろグラスを止めてやった方が良いんでしょうか。
 恐る恐る。
「……飲み過ぎじゃないのか?」
「平気だ」
 あっさり。
 相当強いのか、もともとそういうタチなのか、確かに顔色も変わっていない。けれど、見た目に変化のないやつの方が危ない、というのは、職業柄でなくても知っている。
 ということで、俺は止めるべきだと思います、ハーゲン先生。
「……ハーゲン?」
 ……あり得ないにもほどがある。
 ハーゲンの頬を滑り落ちた涙は、顎から滴ってカウンターの上に小さな円を描いた。
 ぽたり。
 ぽたり。
 ああもう。
 拭う気配がないもんだから、ハンカチをぺしっと押しつける。それを受け取りもせず、ハーゲンはただ目を閉じて、さらに大粒の涙が落ちた。
「なんかあったのか?」
「なんでもない」
 そんな訳あるか。
「もう帰ろうぜ。あしたも仕事なんだから」
「……帰らなくていい」
「無茶言うな」
「帰りたくないんだ」
 ……それってさ。
「分かった。今夜付き合ってやるから、とりあえずここは出よう」
 
 
 いつもこれくらい素直だとすっごく有り難いんだけどなあ、と口にしたらすぐ殴られそうなことを思いつつ、俺はハーゲンを先に部屋に入れた。はじめからそういうつもりがあって店を選んだのかは分からないが、数階上の個室には幸い空きがあった。
 だからって俺だって、こういう状態のハーゲンを抱こうとか、そこまでは思わなかった。まったくその気がないといえば嘘にはなるが、ハーゲンがひと晩付き合わせる相手に俺を選んだことを尊重したかったのだ。
 俺がグラスに水を注いで小さなテーブルに置いても、ハーゲンはそのまま突っ立っていた。
 一度尋ねた問いの、答えが変わることはないだろう。非番の今日に何があったか、何でわざわざ病院に戻ってきたりなんかしたのか、しかも何で俺を誘ったりなんてしたのか、訊いて答えてくれるくらい親切な奴なら、俺だって苦労はしない。
 けどそれは、俺にちょっとは頼ってくれてると解釈していいんだよな。
 ていうか、しますよ、ハーゲン先生。
「とりあえず座れば? 立ってたら落ち着かないだろ」
 飾り程度の質素な椅子から見守っても、ハーゲンはぴくりとも動かなかった。立ったまま寝ているんじゃないだろうな、と、立ちあがって肩に手を軽くかける。
 ハーゲンは目を開けていて、少しふて腐れたような顔をしていた。
 注射に泣き疲れた子供のような顔だった。
「今夜はもう寝たほうがいい」
 なんだかな。
 素直なのは嬉しいが、それはそれでちょっと物足りない気もする。
 酔ったからなのか泣いた所為なのか、目の縁がほんのりと赤い。それはそれで可愛いが。
「……添い寝くらいはしてやる」
 じわり、と、ハーゲンの目にまた涙が浮いた。
 潤んだ目に部屋の明かりが映ってにじみ、瞬きに沿って透明な雫が頬に流れる。
 ……それはそれで可愛いんだよ。
 ものすごく。
 俺が体を押しやったのに、上着の端をつかんだのはーハーゲンの方なのだ。
 まったくその気がないと言えば、嘘になる。
 ものすごく。
 たまらずに触れた頬は、予想以上に熱かった。
「……キスしていいか?」
 ハーゲンは答えず、けれど抗うこともなく、静かにまぶたが降りた。


 こんなに早く、次の機会がくるなんて。
 あり得なさすぎて、夢だと言われた方がまだ信じられる気がする。
 長いキスから始まって、俺は時間をかけてハーゲンを愛撫した。あげる声も、それを堪えようとする様も、それでいてたまらずに喘ぐところも、この前よりはるかに可愛かった。
 この前と同じように後ろから貫こうとして、微かな望みなど抱いた所為で腰が止まる。予期された感覚がこないからだろうか、ややあってハーゲンが俺を見た。
「……前からでもいいか?」
「……暗くしてくれ」
 そういえば明かりもつけっぱなしだ……。
 今まであれこれやっておいて今更暗くするも何もないと思ったが、前からするとなれば勢い両足を掲げざるをえない。そんな体勢で局部を明かりの下にさらすのは、俺が逆の立場だったらやっぱり恥ずかしいのだろうと思い直し、ヘッドボードのスイッチをひねった。
 ナイトスタンドの橙色の明かりが丸く広がる中で、ハーゲンが体をひねる。閉じた膝頭を割って体を重ねると、ハーゲンは目を閉じてさらに顔を逸らした。
 膝の裏に手をかけ、腰を持ち上げる。抵抗に似た一瞬の硬直があって、俺のものをゆっくりハーゲンに呑み込ませる。短く荒い息をつくハーゲンの目尻に、微かに涙が浮いていた。
 同じように固く反り返ったハーゲンのものが、細かく震えながら濁った液体を零し始めている。そこをいじらなくても、後ろだけでイけるというのはこの間知った。
 俺ならお前だけ大事にしてやれる。
 俺ならお前を泣かせたりしない。
 なんて口にしたところで、お前は顔をしかめるだけなんだろうな……。
「……あっ……」
 ぴくん、とハーゲンの背が反る。橙色の明かりでも分かるほどに頬が上気して、それはすごく可愛らしかった。俺の腿に乗っている腰は、背が反ると余計俺の体に密着して、粘着質の鳴き声を上げた。 
 ……どうもこの体勢は、ハーゲンの感じるところをよく刺激するらしい。酔っている所為で余計な抑制もないのだろう。快感に従順なハーゲンというのは見ている側にも充分に刺激的で、扇情的で、そうさせているのが俺だという事実もさらに俺の気を高ぶらせた。
 素面だったらこんな姿は見せないんだろうに。
 ってことは、相当酔ってるんだよな……。
 もしかしたら記憶も保ててないかもしれない。そう考えるほうがつじつまが合う気がする。巻き戻して数時間前から、あり得ないことが続き過ぎる。
 だからといって黙って添い寝してやるほど、俺は禁欲的ではないのだ。
 ハーゲンが拒まない以上、方向性としては間違ってないと思うし。
 酔いがさめたあとにどうなるかというのは、それこそあとで考えることにしよう……。
 身体の構造上、ハーゲンの体をふたつに折り曲げるようにして貫く。ある程度変則的に体を打ち付ける音をもかき消すように、ハーゲンが甘い声を漏らす。結った髪がほどけ、銀色のさざ波をシーツの上に作った。
 記憶が吹っ飛んでいるとしても、それでもいい。
 お前がむちゃくちゃ可愛いことには変わりがない。
「だ、め……ッ!」
 せっぱ詰まった声をあげ、ハーゲンが俺の首に腕を回して引き寄せる。結合がより深くなった一瞬、耳元でハーゲンが鋭い悲鳴を漏らした。
「……ハーゲン?」
 顎をのけぞらせ、苦しそうにハーゲンが息を吐く。回された腕は力無くほどけ、体の両脇にくたりと落ちた。雄はまだ震えて勃っていたが、吐精した様子もない。けれど肌の表面にはうっすらと汗がにじんでいた。
 ……これはさー……。
 いわゆるアレか、ドライなんとかってヤツか。
 ……またまたつじつまが合うな。お目にかかるのはさすがに初めてだが、本当に射精無しでイけるものなのか。
 てか、お前の体はそこまで開発されちゃってる??
 あー……なんか萎えたー……。
 俺がイかせたはずなのに、ハーゲンがひとりで勝手にイってしまった感が否めず、これはもうおとなしく寝た方が良いのかも知れないと思ったのに。
 抜かれる刺激に感じたのか、ハーゲンがとろけたような目で俺を見た。
「もっと……」
 え。
 うわ。
 そこまで露骨に誘うか??
 咄嗟に対応出来ずに俺が固まっていると、ハーゲンは自らの手で、自分のそれをしごき始めた。せっかく落ち着いた呼吸が、それに合わせて艶っぽくなっていく。
 ……理性の吹っ飛んだハーゲンというのは、どれだけいやらしいものなのか。
「分かったよ。お前の気が済むまでセックスしよう」
 忘れればいい。
 あのエージェントのことなんか。
 俺に貫かれて悦びの声をあげるお前は、充分可愛いよ。



 明日──もうとっくに今日、腰が保ってくれるだろうか、とそんなことを考えながら、俺は傍らのハーゲンの髪を撫でてやった。そうやっておとなしく寝ている限りでは、あんなに淫らに乱れたことなんて、まるで嘘のように感じる。騎乗位だのなんだの、俺は知っている限りの体位を試し、拒まないハーゲンに何度もキスをした。
 俺はお前を愛してる。
 なかなかなびかない相手を口説き落とすというのも、それはそれで恋愛の醍醐味だよな……。
「……おやすみ」
 額に軽く口づけると、くすぐったかったのか、ハーゲンが身をよじった。起こしただろうか、と見守る俺に軽くすがりつき、ハーゲンは確かに呟いたのだ。
 愛してる、と。
 ──ルイーズ、と。


***


 傷を診に来た、というと、彼はカルテからわずかに顔を上げてちらりと視線を投げ、すぐに戻した。
「自分で診るからいいよ。だいぶ良くなったと思うし、もうお前の手を煩わせるまでもない」
 理由付けにしては我ながら下手だ、と思った。自分でなんとかしろ、と言い放っておいて、今更。
「何か用か」
 この男にこう訊かれるのも腹が立つものだな、と思った。用が無くても訪ねてきていたのはこの男のはずだったのに。
 用はある。
 あると思う。
 とりあえずひととして真っ当な用が。
「昨日は世話になった。礼を言いに来た」
「わざわざ来てもらうようなことでもない」
 顔も上げずに。
「正直なところ、昨晩の記憶があまり無いんだ。迷惑をかけたら詫びておく」
「あれだけ飲めばな。薬は効いたか?」
「ああ」
「ハーゲン先生が二日酔いじゃぁ、様にならないからな」
 気がついたら、朝だった。
 それも彼の部屋だった。
 朝食と着替えを与えられて、何もなかったように出勤した。避けられているのだ、と気がついたのは、夕方だった。
 この男が何も言わないのが、言ってこないのが、それはそれで薄気味悪かった。避けられるほど自分が迷惑をかけたのだろうか。普通は、そう思う。
 バーで隣に彼がいたのは覚えている。グラスも四杯目までは覚えている。それからあとは。
 肌はさっぱりしていたが、シャワーを浴びた記憶もない。ただ、ひと晩たっても消えないわずかな感覚が、彼に抱かれたのだろう、と思わせた。
 体の奥だけに残る、本人にしか分からない疼き。
 まさか自分から誘ったのではないだろうが、また応じたのは、事実。
 理性の無い自分は、どれほどみだらに啼いたのだろう。
 それならそれで、彼の思い通りではないのだろうか。不本意に茶化されることはあるとしても、避けられるいわれはないはずだ。
「……何か用か? やってしまいたいことがあるんだが」
「昨日の夜のことを訊きたい」
「……たとえば?」
「私を抱いたか」
 彼のペン先が、一瞬止まった。
「うん」
「私が誘ったのか」
「……残念ながら俺の方。いくら酔ってもそこまで崩れはしないようだよ、お前は」
「でも拒まなかった」
 彼はまたゆっくり動かしていたペンを止め、やっと顔を上げて微かに笑った。
「そりゃ多少は乱れたけどな。可愛かったよ」
 羞恥で耳の後ろが熱を持つより早く、彼は笑みを消し、また顔を伏せた。
「俺はお前が好きだ」
「……」
「でももう迫らない」
「……何?」
「俺にも思うところができてな。もうお前を抱いたりはしないから、安心しろ」
「……意味が解らない」
「俺の話は終わったよ。まだ訊きたいことはあるか」
「……」
「無いなら、もう行ってくれ。集中したいんだ」
 この男が自分を拒むなんて。
 否、今まで数え切れないくらいあったはずだ。ことあるごとに張り合ってきて、勝手に競り負けて勝手に突っかかる。お前なんか嫌いだ、と、言われたことも数え切れない。
 もう迫られることもないのなら、それは有り難いことなのに。
 それなのに。
 胸が痛くなる理由など、あり得ないのに。



 言葉通り。
 むしろ言葉以上に。
 彼は自分に距離を置くようになった。
 顔くらいは嫌でも合わせる。そう思っていたのだが、姿さえ見かけない日も多くなった。
(──私が探しているのか)
 そう気付いて、愕然とした。用もない限り、彼に会おうが会うまいがどうでもいいことだ。会えないと気がつくというのは、こちらが彼の姿を求めている。そういうことになる。
 自問に答えは返らない。同じ建物の中にいる限り、その気になれば顔くらいは見られるだろう。ただそれをする理由はないし、会いたがるのは向こうであるべきなのだ。
 あの男ごときに自分が焦らされるなど、あってはならない。



 患者や見舞客はまず使わないこの階段は、急がないときの移動にはちょうどいい。リノリウムの床の足音くらいしか響かない薄暗い空間は、自分の呼吸も聞き取れるほどひっそりとしていて、それで気がついたのだった。
 癖のような溜め息。
(何をやっているんだ、俺は)
 苛々する。
 苛々していると自分で解るのが、さらに癪に障る。
 肩に触れる壁は冷たい。頭を冷やすのにはちょうどいいかも知れない……。
 本当に、何をしているのだろう。
 あの男の所為で苛ついているのも解っている。だがあの男のどこに苛ついているのかが、解らない。
 話をしない。
 姿を見ない。
 突っかかられることもない。
 有り難いことじゃないか。
 ──たん。
 たん。たん。たん。
 リノリウムの床を踏む靴音。
 患者や見舞客はまず使わない階段。
 ──医者は通るのだ。
「やあ」
 ……何日ぶりだろう。
 自分に向けられた声を聞いたのは。
「……やあ」
 たん。たん。たん。
 こんなところに立ち止まっている自分を見たら、無駄話のひとつでも振ってきていたのに。
 足音のリズムが変わらないのが、むかっと来て、かちんと来た。
「ベルティ!」
「なんだよ」
「お前最近おかしくないか」
「は?」
 彼が歩を止め、振り向いたのは背を向けていても分かる。どんな顔をしているのだろう。彼も自分も。
「急に何を言い出すかと思えば……お前こそおかしいんじゃないのか」
「私は変わりない」
「ああそう? だったら問題ないな」
 たん。
「ベルティ」
「何だよ。話があるならあとで聞く」
「いつだ」
「あとでだよ」
 だからそれはいつだというのだ。
 ひと月も自分を避けているくせに。
 ああそうだ。なぜ避けているかを知りたいのだ。
 納得出来る理由なら、自分もこれ以上追ったりしないのに。
「なぜ私を避ける」
「そう見えるか?」
「見えるから訊いている」
「お前はその方が良いんじゃないのか?」
「なぜだ」
「なぜって……それを俺から言わせるか」
「なぜ私が、お前が避けると好都合なのだ」
「それを尋ねるということは、好都合ではないわけだ」
「お前に避けられるいわれがないだけだ」
「避けられて欲しくないんだ?」
 ほら。
 やっぱり避けているんじゃないか。
「お前が無視するのは良くて、俺が避けるのは駄目なんだ。勝手な奴だな」
「それとこれとは違う」
「そう? 何にしても俺が避けるのは駄目なんだろ。理由を聞かせてくれよ、ハーゲン先生」
「腹が立つ」
「ホント勝手な奴だな」
「理由を訊きたいと言うから答えたまでだ」
「じゃあなんで腹が立つんだよ。うっとーしいとか散々言っておいてさ」
 確かにそうだ。
 勝手に競り負けるくせに突っかかられて、いい迷惑だった。
「私のことが好きだと言ったではないか」
「それが何か?」
「それならなぜ避ける」
「俺のことを好きでもないお前に、それが関係あるのかよ」
「それは──」
「さみしいならそう言え」
「誰が!」
「放ったらかされて、さみしくて、それで腹が立つんじゃないんですか、ハーゲン先生」
「馬鹿を言うな」
「それならどうして、そんな顔をしているのかな──」
 たん。
 大人二人が並ぶには少し危険な段の上で。
 両肩をつかまれ、冷たい壁に体を押しつけられた。
 彼の目が真っ直ぐに自分を射抜く。そうだ、黙っていれば多少はハンサムなのだ。そんなことをなぜか思う。
「少しくらい素直になれば俺も赦してやるのに」
「なんだと……?」
「どーしてもいやだって言うなら五秒以内に突き飛ばせ。さもなきゃ俺の都合のいいように解釈するぞ」
 突き飛ばせ、だって? こんなところで?
 そうしたらお前はどうなる?
「五秒経った」
「危な──」
 非難の言葉が唇でふさがれる。しかも今、確実に壁で頭を打った。
 突き飛ばすのは、たやすい。
 けれどそうしたら、彼が転げ落ちる。
「……んっ……」
 思わず息を詰めるような、濃厚なキスだった。彼の舌にまさぐられ、持っていたカルテが指から滑り落ちそうになる。
 ──彼は一体何を赦すというのだ?
 迫らないとか抱かないとか宣言したのはそっちの方だし、避けていたのもお前じゃないか。
 お前は一体、俺に何をさせたいんだ!
「ッぷは、……わっ!」
 解放されたかと思いきや、舌の先で左の目尻をなぞられ、くすぐったさの余り身を竦める。反射的に縮めた腕とカルテが、抱き寄せられた体の間で押しつぶされた。
 鼻先を、消毒薬の匂いが薄く漂う。
「俺の都合のいいように解釈する」
「なッ……! こんな場所で突き飛ばしたらお前が転げ落ちるだろうが!」
「そーゆー心配をしてくれるほど、俺に優しくなったな」
「は? 大体お前は私の何を赦すというんだ?」
「お前があいつの所為で泣いたりするのをだよ」
「は? 私が泣いた?」
「覚えてないならそれでもいい。その分だとあいつにも会ってないみたいだしな」
「何でお前がそんなこと──」
「お前、俺がなーんにも知らないお馬鹿さんだと思ってないか?」
 ……思ってはいない。
 というより、そういうこと自体を考えたことがない。
 第一、ルイーズとのことは、彼には関係のない話で──。
「ああほら、泣かない泣かない」
 体を離し、拭うというよりは頬を引っ張るかのように、彼が両手を添える。それから、こん、と額を合わされて、それでまた後頭部を打った。
「俺はお前を泣かせない」
「泣いてなど──」
「俺はお前を愛してる」
「──」
「お前もちょこっと俺が好き」
「何を、」
 馬鹿な、と言う言葉は声にならず、ついばむような彼のキスを両手で押しとどめる。握りっぱなしだった一番上のカルテが、もはやしわになっていた。
「キスはよせ!」
「じゃあセックスしよう」
「何だと──」
「俺一ヶ月も我慢したんだぜ? 何か見返りがあっても良いと思わないか」
 ばごん。
「──お前にくれてやるものなんかこれで充分だ!」
 クリップボードの裏をしたたかに彼に叩きつけ、ひるんだすきに腕から逃れる。名を呼ばれたような気もしたが、振り返ってやる義理もない。
 一段抜かしで階段を駆け下り、非常口に等しいドアを後ろ手に閉めて、やっと息をつく。
 何が我慢だ。
 何が赦すだ。
 そもそもこの自分が、女々しく泣いたりするわけがないではないか。
(──痛いな)
 二度も打った後頭部に、痛みがまだ微かに残る。もう一発くらいはり倒してくれば良かった。大体あの男は、階段から落ちたくらいで死ぬようなタマではない。突き飛ばしてやったって良かったのだ、別に。
 そうだ、そうしよう。仕事が終わったら、もう一度張り倒しに行こう。一度や二度のセックスで、我が物顔をされるなんて我慢がならない。


***


「何か用か?」
「何かと問うのはよしてくれ。用があるから来ている」
「それもそうだ。悪かったよ」
「今夜当直だ」
「誰が?」
「私がだ」
 そんなふて腐れた顔で言わなくても、ハーゲン先生。
「俺も今夜は居残りだな」
「そうか」
「九時には終わるよ」
「そんなことは訊いていない。私は今夜当直だから、お前に付き合ってるヒマがないということを言いに来た」
「……それはわざわざご丁寧に」


 次の朝、俺はハーゲンと顔を合わせるなり、いきなり殴られた。
「痛って……いきなりなんだよ!」
「お前こそなんだ!」
「何が!」
「九時で終わると言ったではないか!」
「終わったよ! それが何か?」
「何か、だと? お前──」
「九時で終わらせて、帰ったよ」
「帰った? 何のために私がわざわざ言いに行ったと──」
 ……わっかりやすー。
 意外とこいつ、単純馬鹿なんじゃないだろうか。
「期待してたなら悪かったよ。けど何も病院(ここ)でやること無いだろ? この前はたまたま急患もなかったからいいけど──」
「誰が何をやるだって?」
「違うのか?」
「思わせぶりなことを言ったのはそっちの方だろうが! 大体私は、お前ほど相手に不自由はしていないんだ!」
「……じゃあ怒らなくたっていいじゃないか」
 大体、付き合ってるヒマがない、という話だったぞ、昨日は。
 言ってることとやってることが、合ってない気がします、ハーゲン先生。
 そういうひねくれ加減が、お前らしくていいけどさ。
「悪かったよ。今度お詫びする」
「当たり前だ」
「じゃあ今日だ」
「は?」
「今日の二十一時。夜九時。それでいいな」
「勝手に決めるな。私は帰る」
「えー? 付き合うって言ったのに」
「付き合ってやってもいい、だ。それに毎回とは言っていない」
「えー……」
「第一、昨日お前は帰っただろう? だから今度は私が帰る」
 ……本気で言ってますか、ハーゲン先生。
 いやいや顔を見る限りでは普通に本気だな。
 遊び人のくせに、駆け引きが下手だな、ハーゲン先生。
 待ってたことは分かったし、俺も我慢して帰った甲斐がありますよ。
「わかった。悪かった。じゃあ次の機会にする。っていうか何もここでなくたっていい話だし……なんなら今ちょっとヤってく? お前このあと帰るだけだろ?」
 ……だから。すぐ拳固に頼るのはやめてくださいハーゲン先生。
 言葉に詰まるとすぐ手がでる、余裕のないお前もそれはそれで可愛いけどさ。



「ごめん、って」
「……もういい。謝られても困る」
 そりゃまあ、そうです。
 謝るくらいならしなければいいんです。が。
 そうやってやたらぐったりしているのを見たら、謝りたくなるだろうよ。
 素面だとやっぱり理性とかその辺が邪魔をするのか、この前みたいにイッたりはしない。けれど、そこがハーゲンの感じるところだというのは変わらないので、堪えてしまう分、身体にひずみというものは出てくる。
 その結果、ハーゲン先生はいい具合に動けなくなっているのだ。そしてその動けない、ということを悟られまいとして、ふて腐れたように毛布にくるまっているのが可愛い。
 そりゃまあ、加減しなかった俺も悪いです。が。
「もう駄目だって思ったら言ってくれよ。したいこととかされたいこととか厭だってこととかさ。努力はするけど、解ってやれないときもあるし」
「聞く耳持たないくせに何を言う」
「えー?」
「私が主張しようにも、お前が言わせる隙を与えないのだろうが!」
「えー……あー……そう? そうなんだ?」
 別に口を塞いだりはしていない。
 お前が嫌だと言うからあんまりキスはしないでやってるんだぞ。
 それなのに。
「あー、そうなんだぁ!」
「嬉しそうにするな!」
「俺が加減できないのってお前の所為だな! じゃ今度は言えるくらいにするから、もっかいやろう」
「ば、馬鹿! もういい! 入ってくるな!」
 がり。
「痛だっ」
「……何か引っかかったぞ、今」
「あー……親指。あの傷。怖くってあれいらい爪切ってなくてさ……」
「痛むのか」
「切られたとこの皮硬くなってるみたいだな……傷自体はなんともない」
「あれから何週間経ってると思うんだ。爪くらい切れ」
「えー……」
「硬くなったところくらい切れ! また引っ掛けて裂けたりしても面倒は見てやらんぞ」
「あ、曲がりなりにも何か面倒見る気にはなってくれてるんだ?」
「どうしてお前はそうひとの揚げ足を……足を出せ。今すぐ切り落としてやる」
「うわちょっと待って冗談だって! 歩けなくなる!」
「何を言ってるんだ? 皮と爪を切ってやるから足を出せ」
「えええ、うわそりゃありがたく」
 ……ぱちん。
 毛布から上半身だけ出して、ハーゲンが俺の爪を切ってくれる。
 端から見たらちょっと女王様だな、俺。
 っていうかハーゲンって意外に尽くし型だよな。
「……愛してる」
 ……何も殴ることはないじゃないか!
 好きなものを好きといってなんで怒られてるかな、俺!
「私にそんな気はないと言ったろう」
「うん。でも愛してる」
「聞き飽きた」
「耳タコになるまで言ってやる」
「聞く耳もたん」
「いいよ別に。寝てるときに耳元で言い続けてやるから」
 いやいやいやいくら爪切りでも刃物をひとに向けないでください!
「……お前はなぜ臆面もなくそう言えるのだ」
「好きなものを好きというのに臆する必要があるのか?」
「私にそう言える理由が分からない」
「好きになるってことに理由は要らないと思うけど……強いて言うなら、『俺』と『お前』なのって、俺とお前だけだと思うからかな」
 もっとも最近は「私」と「お前」だな。
 ハーゲン自身が気づいてないようだから、俺もあえて突っ込まないけど。
 もともと男に極端にそっけないとは言え、「お前」と遠慮なく呼ばれるのは、俺くらいだと思うのだ。
「……お前の言うことは時々まるで解らない」
「いいよ別に。言葉で全部説明出来るなら俺も苦労はしないんだ」
「苦労してるってのか? お前が」
「してるしてる。何せ相手がお前だからな。言葉で足りない分は体で説明するから、やっぱもっかいやろうぜ。爪もきれいになったし」
 爪切りごと殴られようが、翻った髪が目に刺さろうが、やっぱり俺は加減出来そうにないです、ハーゲン先生。


***


 ──まだ暗い。
 起きる時間には、まだ早い。
 そうでなくても今日は休みだ。特に用もない。早く起きる理由もない。
(休みなんだよな……)
 ただでさえ貴重な、医者の休日。
 それをなんで、こんな場所で過ごそうとしているのかが自分でも謎だ。
 いや──理由は簡単、か。
 一週間しつこく泣きつかれるよりは、一日──ひと晩付き合った方が手っ取り早いのだ。
 ひと晩経ったし、適当に頃合いを見計らって、帰ろう……。
「……」
 すぐ傍らで声にならないほどの小さな吐息を漏らした、ベルティの手が無骨に体を探る。手のひらが背中から腰に降りて、まるで抱え込むようにぐっと抱き寄せられた。
 子供がぬいぐるみにすがりつくかのように。
(……苦し……)
 この男は自分を殺す気か。
 かろうじて顔を離して、息を吸い込む。不意に冷たい空気が肺を刺し、少しどきりとした。
 布団の中で絡む足が、その体温が、妙に生々しい。あの高ぶる熱とはまた別のリアルな人肌。わずかに届かないつま先。背にまわる腕。それらの輪郭が今の一瞬で、否応なしに感覚に割り込んできた。
 こんな場所で。
 こんな男に。
 いいように抱きすくめられているなんて、あり得ない。
 だから腹が立った。
 もうこの際、今が何時でも構わない。頃合いまで待ってやる義理もきっと無い。一週間泣きつかれるなら、一週間叩き出してやればいいいだけのこと。
 もう、帰ろう。
「……おい」
 誰に気兼ねする必要もないのにそれは囁くような声にしかならず、彼は身動ぎさえしなかった。無意識故の力強さなのか、がっちり抱え込まれた腕もほどけそうにない。
 だから余計、腹が立った。
 こんな場所でこんな時間に、自分だけがこうして苛々していることそのものも。
「ベルティ!」
「…………うん?」
 起きたか、と思ったのも束の間、ますます引き寄せられた。ぽんぽんと軽く頭を叩いておきさえしながら、彼の寝息は相変わらず深い。覚醒して返事をしたわけでは、無いのだ。
 ……寝てしまおう。
 そうだ。部屋もまだ寒い。外も暗い。起きてから存分に仕返ししてやればいい。
 それまでせいぜい、後生大事にしがみついておけ。
(後生大事に……?)
 大事に。
 大切に。
 こんなにあからさまに、抱き締める。
(──言葉のあや、だ)
 単に加減を知らないだけだ。事実、一歩間違えば窒息するではないか。
 大事にされているなんて、思いたくない。
 されてないとも、思いたくない。
(……やめよう)
 こんな男の心情なんて、考えるだけ無駄だ。だから今は寝て、起きたらとりあえず詰る。そうしよう。


「ああ、まだ部屋寒いから。起きると」
「私の服は?」
「洗濯中」
「は?」
「昼までに乾く」
「そういうことじゃなくて」
「とりあえず着るものなら何か貸すから」
 ──そういうことじゃない。
 どうしてこの男は、自分に及びもつかない行動をとるのだろう。
 先に起きたのは自分のはずだったのに、傍らのこの男がいなくなっても気がつかないくらいまた眠り込んでしまったのが悔しい。帰るタイミングまで逸してしまうなんて、何という不覚だ。
 毛布をたぐり寄せて半身を起こすと、確かに部屋の空気はまだ肌寒かった。なにかの焼ける香ばしい香りが漂い、それで空腹に気がつく。
「寒いはずだ。見てみろよ、雪積もってる」
 フライパンを繰りながら彼が顎で指す。見晴らしだけは自慢出来る部屋の窓からは、真っ白に彩られた屋根が遠く見えた。
「急に積もるもんなんだなあ。……っと、えい、や……っと。朝飯までもうちょい待って。あとええと、はいこれ」
 両手に小さなものを握らせて、彼はあっという間にコンロの前に戻る。持たされたもの自体は初めて見るものでもなかったし、中身だって簡単に予想出来て、簡単すぎて信じたくなかった。
 天鵞絨に模した外張りの、蝶番で開く小さなケース。
 その中に指輪以外のものが入っているという事態には、お目にかかったことがない。勿論この現状においても、だ。
「……これはなんだ」
「もうすぐ誕生日だったなーと思って」
「どうして指輪なんだ」
「俺の気持ち?」
 だからどうしてそれがこの銀色の輪になるのかが解せない。
 しかも。
「……入らない」
「ええっ?」
「関節で引っかかる。無理に入れたら取れなくなりそうだ」
「えええー……」
 しかし彼は、不服そうな声音とはうらはらに、なぜかにやりとした。
「自ら薬指にはめてくれるなんて思わなかったな」
「何……?」
「小指にだったらちょうどいいと思うんだけどな。ああ勿論、薬指に無理にはめてもらって、取れなくなっても俺は全然構わないぞ」
「小指にだって?」
「誰が薬指、なんて言った? それも左手」
「おま……普通指輪といったら薬指だろうが!」
「そんなにとこにつけたら詮索されるだろ? 小指だったらほら、ちょっとしたアクセサリーってことにもできるだろ」
 むかっ、と来た。 
 何も考えずに薬指に通してみた自分に。
 何のことはない。利き手で指輪を持っただけだ。そうしたら普通、空いた別の手に合わせるだろう。
「ああはいはいそうかもねそういうことにしておきますハーゲン先生」
 ますます、むかっと来た。
 したり顔で軽くいなすこの男に。
 それから。
「ちょっとしたアクセサリー程度の気持ちで指輪なんか贈るな」
「駄目かよ?」
「お前は誰にでもこうやって軽々しく指輪を贈るのか? 指輪だぞ? イヤリングを贈るのとはわけが違うだろう」
「……お前意外とロマンチストだな」
「お前にデリカシーがないだけだ」
「でもそうやって怒るっていうのは、受け取ってくれる気にはなってるんだ」
「……誰が!」
 外して投げつけてやろうかと思いはするものの、第二関節に引っかかったのがうまく外れず、さらにむかっと来た。そんなに安くないものだろうことくらいは見れば分かる。それそのものに罪はない、が、いろんな意味で忌々しい。
「……ほんとに入らない?」
 俯いて躍起になっていた所為で、彼が目の前にいたのにも気付かなかった。屈み込み、手を取られる。
「……ほんとに入らないな」
「何を今更」
「薬指用で買ったんだけどな……目算誤りだ」
「なんだと……?」
「小指用だっての、信じたのか? そりゃあ贈るのはお前が初めてじゃないけど、俺はそんな簡単に指輪を買いません」
 こつんと額を合わせ、左手から指輪を抜き取る。それを指先で軽く転がしてから、彼は反対の手を取った。
「……右手だと入るんだな。変なの」
「へ……」
 あっさりと、薬指の根本にまでとおった、銀色の輪。
 はずれなくなったらどうしてくれるというのだ。
「……医者が不用意にこんなものをつけたら、患者にどんな影響があるか」
「解ってるよ。でも今くらいいいだろ」
「こんなもので私を縛ろうとする気か」
「……お前意外に深読みするね」
 縛られてくれるならそれもいいけど? と、至近距離の上目遣いで彼がまたにやりとする。
「俺はお前がいつでも可愛いが、そーやってちょっとナイーブになるとことか特に好きでさ」
 ……この男は、言葉の使い方を激しく取り違えているのではないか。
 何をどう解釈したら、この自分がこの男にこんな評価をされるのだ?
「ついでに、セックスしてるときのお前もすっげー好き」
「なッ……」
 取り違えとかそれ以前に、単にこの男にはデリカシーというものが皆無なのだ。
 きっとそうだ。いやそんなことは、とうの昔に分かり切っていたことで。
 とりあえずひっぱたいておこうと思ったものの、つかまれたままの両手は意外にも動かせず、気付いているのかどうか、彼は薬指に収まったままの指輪を、指先で撫でた。
「実はこれ、緊急呼び出し用のスイッチがついていてさ」
「は?」
「いつでも俺が呼び出せるという寸法だったりする」
「……どこまで本気だ」
「いつでも駆けつけてやるってことだよ。おまえにもかかりつけの医者は必要だろうし」
「……お前の思考回路がまるで解せん」
「そう? 俺がお前を好きで、たまにはキスさせてっていう感じなんだけど」
「解せない」
「うん」
 解せない。
 あり得ない。
 乞うからキスしてやるだけだ。したいわけじゃない。されてやるだけだ。
「……なんか焦げ臭いぞ」
「え、あ、うわ、しまった忘れてた!」
 唇が触れる寸前で、彼は弾かれたように立ちあがった。この分だと朝食はまだ先だ。毛布を羽織ったままごろりと横になると、フライパンから煙が上がっているのが見て取れた。
「指輪は実際駄目だと思うからさあ」
 焦がした何かと格闘しながら、こちらを見もせずに彼が言う。
「鎖も買うから、ペンダントにするのはどうだ? それなら襟で見えないし」
 勝手に言ってろ。
 受け取るなんて一言も言っていない。こんなもので買われるほど、自分は安くないのだ。


***


 だけど。
 ハーゲンが人前でネクタイをゆるめなくなったのと、脱がされるのをさらに嫌がるようになった理由を、俺は知っている。


了   


〔あとがき〕
 見つからなかったら自分で書け、という感じで書きました。
 探せばあるのかも知れないんですけど、自分の理想型を手っ取り早く作れるのは自分でしたので。
 それと長沢涼さんにも大変煽られましたので。

 アタシ本来、この手のゲームは滅多にしません。やれません。「王○子様Lv1」でも耐え難かったくらい、ほんとにやれないんです、恥ずかしくて。これ系やるくらいだったら、フルボイスアニメーション過多の男性用とかこなした方がはるかにマシなのです。あるいは男性向け男同士ものとか。炎○留とかのほうがもうがんがんプレイできるっていう。
 だのに入手してしまったのは、多分パッケージの軍服に惹かれたのだと……あとすぐ隣に置いてあったのがいかにも女性向けのキラキラ華奢系主人公だったのが要因かと。いや華奢な男の子は大好きですが、プレイヤーとしてはやはりやられる前にやりたい……っていやいやそうではなくて、そもそもお店に寄ったのが運の尽きでした。でまあ結果的にはかなりいい買い物で、軍服だし。半脱ぎだし。逆裁以来の大ヒットだったと思います。だもんで語るわ押しつける和で迷惑を被った人々複数。アタシは楽しかったです。

 プレイヤーとしては、ハーゲン先生を落とせたのは嬉しかったんだけど、外科医コンビでくっついてもらう方が数段萌えで。ていうかアタシがベルティ先生を偏愛しています。「格好良すぎるだろ」というツッコミもいただきましたが否定しません。一応ゲーム文に則してみたり、設定諸々引き継いだ形にはしましたが、もうぶっちゃけアタシの理想のみで仕上げました。
 ネタ的には、ぶっつり切られたのはアタシ自身です。ごっさ、痛かったです。あと3秒で間違いなく気を失いました。深爪したところに雑菌が入ったとかで(マジで)、もうその場で切開でした。
 麻酔の注射も打たれたんだけれども、なんか事前薬みたいなのを飛ばしたらしく、看護師さんが怒られていましたが、結局フォローされるでもなく執刀開始でした。大丈夫かアタシと思いました。
 その後は、ぺろっと薬塗られるためだけに毎日毎日通院しまして、限りなく面倒だったのですが、ネタになるとは思ってなかったのでプラマイゼロかプラスくらいです。親指じゃなくて薬指ですけど。別に泥水の中歩いてもいませんけども。針で刺すなんて野蛮なことをしていたのは相方で、これ幸いとネタにしました。

 全体の構想はできていたのだけれど文章にうまくならず、あっちを書きこっちを書きして最後にアレなシーンをやっと仕上げ、全体通して見たら割にうまく接ぎ合わせられたと思いました。たまにはそんなこともあるようです。


 

ウエニモドル